今日の一作 〜 映画『SHOAH』


「ショア」と読みます。
まずこの映画の特徴をいくつか列挙します。


1、 映画全編で9時間27分
2、 インタビュー、風景映像のみで構成。音楽、ナレーション、一人語りなどは一切なし
3、 予備調査14カ国、350時間に及ぶ撮影
4、 1974年から撮影をはじめ、1985年に劇場公開


 この映画はこれらの特徴をもった、第二次世界大戦時のユダヤ人収容所を主題にしたものです。
インタビューとは、収容所の生存者や収容所周辺に住んでいたポーランド人、ユダヤ人を収容所へ運んだ列車の運転手、歴史学者、元ナチス将校などへのものです。1974年、終戦29年後からの撮影ですので、インタビューに応える人々も、現在僕たちが常識的にもっている「戦争を語る人々」よりも断然若いです。40代、50代の人が多いように映りました。収容所周辺村でのインタビュー時には、村人が続々集まってきて誰彼なく言葉を発していたりもします。それだけ「語ることができる人」が多い時代に制作された映画です。


 この映画をドキュメンタリー映画とは言えません。あえて言うなら『選挙』『選挙2』や『演劇1・2』などを監督した想田和弘氏が提唱する「観察映画」でしょうか。音楽、ナレーションが一切なく淡々と言葉、音が流される映画。


 ドキュメンタリー映画と観察映画の最大の差異は、「意図」の差にあると思います。ドキュメンタリー映画は、通常の物語映画同様に起承転結があります。話のもって行き方、ナレーション、音楽などでドキュメンタリー映画のそれは構成されます。観察映画はそれを拒否します。そこに存在するだけの音が流れ、そこに存在する言葉が流れ、そこに存在する風景だけが流れる形で極力それを拒否します。その一線においてドキュメンタリー映画と観察映画には、同化不可能な確かな断絶があります。その意味で『SHOAH』は確実に観察映画側に属する映画です。製作者の意図を極力削って、削って提出された9時間24分。ただそれでも意図を全て消しさることはできません。350時間のうちの9時間24分という編集はそのまま意図といえますし、そもそもこの映画を製作しようとした意図自体は消えずに存在し続けます。研ぎ続かれて小さく小さくなっても芯が残る米のように。


 残った意図は二つに分けられます。一つは、映画の内容に対する意図です。映画の内容にどのような意味をもたせるか?という意図です。物語といってもいい。もう一つは、映画製作においてナレーションなし、音楽なし、インタビューのみの構成を選んだ意図です。なぜ観察映画の手法を選んだのかという意図。その二つの意図は消えずに残ります。永遠の意図といえますが、その二つには大きな違いがあります。それらは同種のものではありません。前者の意図、すなわち内容に対する意図と後者の意図、すなわち構成の意図は相関関係にあります。仮に内容に対する意図を重視するなら構成の意図は弱まっていきます。観察映画という構成ではなく、ドキュメンタリー映画や通常の物語映画の構成を選択するでしょう。逆に構成の意図を重視するなら、内容に対する意図は弱くなります。観察映画という構成を取るということは、内容に対する意図を諦めざるを得ません。なにせナレーションも、音楽も、付け足しもないわけですから。内容に対する意図=思った物語作りをできません。このように内容に対する意図と、構成の意図は相反する関係にあるわけです。


 『SHOAH』はその相関関係において、どのような位置にある映画なのでしょうか。それは冒頭にも特徴としてあげたように、構成の意図を重視しており、内容に対する意図は弱いという形であることが明白です。9時間24分という´常軌を逸した´長さもそれを証明しています。それは統一的な物語性を拒否することを意味しています。平たくいえば、「こう感じてほしい」という製作者の願望を極力捨て去っているわけです。その中で残るこの映画の意図とは一体どのようなものなのでしょうか。それは、観察映画の手法をとるという構成の意図であり、それが意味するところは、「出来合いの物語を提供することはない。自分で感じ、考えてくれ」という製作者の切実なメッセージである、と僕は思います。



 9時間24分。なぜ監督のクロード・ランズマンはそのような長時間を必要としたのか。映画を観ながらそのことを僕は考えていました。ゆうに4、5本分の映画の時間です。(実際に4回に分けてのものを観ました)なぜそれほどの時間を必要としたのか。その答えを僕は知りません。ただ、この映画の意図が「自分で感じ、考えてくれ」であるなら、それを書くのがマナーであるはずです。なので自分の考えを述べるわけですが、それは「「死者への鎮魂」のためではないか?」です。9時間24分という´常軌を逸した´時間は死者への鎮魂のためだったのではないだろうか。


 強制収容所というとアウシュビッツ収容所が有名ですが、トレブリンカ収容所、ソビボル収容所、マイダネク収容所、ベウジェツ収容所などもあり、この映画でもアウシュビッツの他に、トレブリンカ、ソビボル両収容所が大きく取り扱われています。それら全ての収容所の犠牲者数は、600万人とも言われているそうです。しかしその実態は今もってはっきりしていません。アウシュビッツ収容所を例にとっても、ソ連は400万人を主張、イギリスは450万人を主張していましたが、公式の記念館では150万人、ユネスコは120万人と、大きな差があるのが実際です。この数字の大きさにホロコーストの残忍さを感じざるを得ませんが、もしかしたらそれ以上に残忍なことがあるのではないかと感じてしまいます。それは、数字が百万単位で変動してしまうというそのことです。450万人と120万人の差は320万人です。単純な計算ですが、この単純な計算のうちに、320万人の人が増えたり減ったりしているとは一体どういうことでしょうか。450万人と想定された時に死んでいた人が、120万人と想定された時には生きている可能性がある。机の上での計算によって、死ぬ人が生き返り、生きている人が死ぬことがあるということに、僕は混乱します。「これは死者への侮辱ではないだろうか」。そのような思いが僕に混乱をもたらします。万単位で数えられ、計算や考え方によってその数字が何倍も変わってしまう死者は完全に「顔」を失ってしまった存在と言わねばなりません。死に様も、死んだのかも明確にならない死者。数字の上で死んだことにも、生きていることにもなる死者。人類のうちで最古の儀礼であろう弔いを忘れられた死者。ホロコーストの最大の災禍は、そのような死者を生んだことなのではないでしょうか。もちろん多くの人を殺害すること自体残忍なことです。しかもガスという悪意の結晶のようなものによって。そのことを軽くみるつもりは毛頭ないのは当然ですが、死者の冒涜はまた別の次元で許されるべきことではないと思うのです。一切「顔」を与えられずに、数のみで認識される死。その数すら万単位で変わってしまう死。ゆえに弔われることのない死。これを冒涜と言わずして何を冒涜と言えばいいのでしょうか。それら冒涜された死を前にして僕たちはどのように弔えばいいのでしょうか。


 『SHOAH』は「死者の鎮魂」の映画である、と僕は思います。生存したユダヤ人、収容所の周囲に住む人々、ユダヤ人を送る列車の運転手、歴史学者、元ナチス将校などへのインタビューは事細かなものです。クロード・ランズマン監督は些細なことを何度も、何人にも訊ねます。当然の答えが予想される時でもしっかり本人の言葉をもうらよう通訳に指示をします。その時代、その場所の当事者たちの言葉を収集してクロード・ランズマン監督は歩きます。時には地図を書いて、時には現地を実際に歩いて。時には相手を追い詰めます。その歩みは、「詳細」という言葉がふさわしいものです。「詳細」を求めて、クロード・ランズマン監督は、5、6年もインタビューにインタビューを重ねたのです。彼はなぜそれほどまでに「詳細」を求めたのでしょうか。それを僕なりに解釈すれば、その「詳細」をもって、死者に「顔」を与えることを願ったのではないか、ということです。冒涜された死者をいかに弔うか。その答えを死者に「顔」を与えることに求めたのではないか。そのために些細なこと、例えば、ここに壁があった、その道はどこに繋がるのか、その右になにがあったのか、などを積み重ね、そこで生き、そして死んだ人の「顔」を少しでも鮮明にしようとしたのではないでしょうか。もちろん、一人ひとりの方の「顔」がはっきりするわけではありません。全てが明瞭にあるはずもない。それでも、それでも少しでも「顔」を鮮明にすることが、冒涜された死者を弔う、それこそ些細かもしれないけど、一つの方法なのではないか。クロード・ランズマン監督が「詳細」を求める理由はそこにあったのではないか、と僕は思います。だからこそ、9時間24分という´常軌を逸した´時間が必要だったのではないでしょうか。(本当はもっと、もっと必要だったはずです)9時間24分は彼のレクイエムだったのだ、と僕は思います。



 果たしてクロード・ランズマン監督の内容に対する意図がそこにあったのかは分かりません。僕の勝手な解釈です。僕は普段、映画に対してこのような解釈の仕方をしません。「監督はこのようなことを意味していた」などというのは品のないことであり、さして意味もないことのように思っているからです。ただこの映画は、先述したように、「自分で感じ、考えてくれ」という自由度が極めて高いものです。その自由度をいいことに、今回監督の内容に対する意図(それは削りに削った芯のようなものですが)にまで踏み込んだものを考えてみました。この解釈があっているのかどうか知りませんが、「自分で感じ、考えてくれ」というこの映画の消せない意図に対しては誠実に応えたつもりであることは確かです。