今日の一作 〜 映画『ふしぎな岬の物語』


「朝起きて魚を獲って、市場で売って、午後にコーヒーを飲んで、次の日の漁の準備をして、寝るだけ」


 江戸時代に生きた人々は、現代から見て幸せだったのだと思う。僕は江戸時代の研究者でも、特別な知識をもつ者でもないが、現代に生きる者たちが感じる「不幸せ」が少なかったのではないかという推測による。現代に生きる者たちが感じる「不幸せ」とは一体どのようなものだろうか。それは「何を不安に思うか」を考えれば遠からずの回答を得ることができるだろう。例えば、老後の経済的困窮、就職、病気、子供にかかるお金など。それらは特定の人のみではなく、広く多くの人に共通する現代を生きる者の不安ではないだろうか。それらが望む方向に進まないことで「不幸せ」となるわけだ。
 江戸時代にもそれらの不安は当然あったことだろう。しかし、どれも現代に比べ圧倒的に少なかったと思う。老後や病気などは、寿命の短さ、罹ったらお終いというある種の諦念のうちに回収されるだろうし、就職も非自由選択=用意された職業(世襲、丁稚奉公など)によって吸収されるだろう。子供にかかるお金に関してはむしろ労働力として消費するものではなく生産するものとして重宝がられたのではないだろうか。つまり、江戸時代には現代的「不幸せ」が少なかったのではないだろうか、ということだ。そして、それは現代的「幸せ」が少なったことも同時に意味する。「幸せ」を、「不幸せ」ではない状態と定義することも可能であろう。その意味で、「不幸せ」がない社会には「幸せ」もない。ということは、「江戸時代に生きた人々は、現代から見て幸せだった」という先の指摘も誤りとなる。江戸時代の人々には、現代的な「幸せ」も「不幸せ」も存在しなかった。


 冒頭の文章は、『ふしぎな岬の物語』で登場人物・徳さんが、東京から逃げてきた娘・みどりの「お父さんの幸せって何?」という質問に対して答えた台詞である。「考えたことない」とつぶやいた後の台詞。この映画の舞台は千葉県の小さな漁村だ。「幸せ」を求めるあまりに「不幸せ」になって東京から逃げてきた娘。そんなみどりにとって「幸せ」を考えない人間の存在は衝撃であったはずだ。そしてその衝撃は現代人が容易に共有できるものであろう。その衝撃はこう続くかもしれない。(蔑みながら)「向上心のない人間だな」と。しかし、徳さんの姿はほんの150年前まで続いた日本人のものである。
 ここで現代日本人と徳さんを比較するつもりはない。ただ、徳さんのような人間もいてほしいと思う。そんな生き方の選択股を体現する人間は、ある人にとっては絶対的な救いになるだろうから。


 『ふしぎな岬の物語』は、徳さんのような人間が愛されている村の物語である。