映画『チョコレートドーナツ』


※ ネタバレあり

<あらすじ>
1979年カリフォルニア、歌手を目指しているショーダンサーのルディ(アラン・カミング)と弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)はゲイカップル。 母親に見捨てられたダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会った二人は彼を保護し、一緒に暮らすうちに家族のような愛情が芽生えていく。 しかし、ルディとポールがゲイカップルだということで法律と世間の偏見に阻まれ、マルコと引き離されてしまう。


Yahoo!映画より
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id348035/


映画とは「個人」を描くものだ、と僕は思います。登場する「個人」の姿が克明に描かれていればいるほど、その映画は素晴らしい。


『チョコレートドーナツ』は素晴らしい映画です。ルディ、ポールという二人のゲイ、マルコというダウン症の少年、それぞれの「個人」が短い時間の中で実に克明に描かれています。克明に描かれているかどうかを確認したければ自分に訪ねてみればいい。「自分よ、この映画に登場するこの人が死んだら悲しいかい?」と。ルディ、ポール、マルコの三人が死んでしまったら悲しい、と映画の前半で思ってしまいました。見事に映画に引き込まれてしまいました。


その感情が最も昂ぶったのは、マルコと同居する許諾を得るためにルディ、ポールが起こした裁判の場面でした。マルコが通った特殊学級教師によるルディ、ポールのマルコへの愛情溢れる世話ぶりの証言や、家庭局職員による同居への好意的な証言が、この裁判を三人の求める同居を実現させるもののように思えました。しかし、検事によるルディとポールのゲイカップルの私生活を問題にする戦術で結局は「同居を認めない」という判決で終わりました。その後上告しますが、そこでも負けてしまいます。マルコは薬物所持で懲役刑をくらって出所したばかりの母親と暮らすことになりました。


この一連の裁判において僕(を含め多分観ていた人のほとんど)は、ルディ、ポールを応援していました。それは、ゲイやダウン症についての差別感情を露骨にする検事や判事への怒りと表裏一体の感情でした。「ゲイであることを差別するな!」と検事に憤り、「差別なんかに負けるな!」とルディ、ポールを応援する。この感情は、ルディ、ポール、マルコという「個人」が克明に描かれていることにより生まれたものです。なぜゲイであるのか、どのような生活をしているか、ダウン症のマルコがどんなにかわいらしいか。観客はそれを分かっています。その延長線上で、三人を応援し、幸せを願うのはある意味自然な成り行きです。


しかし、マルコは最後死んでしまいます。薬中の母親との家から抜け出し、ルディ、ポールを探していた途中に橋の下で死んでいるのが発見されました。最後の場面でその新聞記事をポールは手紙付きで、裁判の検事、判事などに送ります。「知的障害をもったマルコという15歳の少年が橋の下で死亡した」というほんの片隅にあった新聞記事。ここにマルコという「個人」はいません。「知的障害」という「記号」のみです。


思えばこの映画は「記号」と「個人」のせめぎ合いと言えます。ゲイ、知的障害、黒人(弁護士が黒人でした)といった「記号」と、ルディ、ポール、マルコという「個人」。この映画を観る人の多くは、「三人が一緒に暮らしてほしい。なぜ判事はそうに判決をださないんだ」と思うでしょう。それは三人を「記号」としてではなく、「個人」として見ているからです。だから三人を差別する言説には憤りを覚えるわけです。しかし、仮にこの話を新聞記事で読んだ時はどうでしょう。「ゲイのカップルが、血のつながりのない知的障害児と同居するための裁判を起こしました」という新聞記事。その時、「差別しないで同居させるべきだ!」と思うでしょうか。ゲイカップル、血のつながりがない、知的障害児といった「記号」のみを受け取った時、僕は差別せずに対することができるのだろうか。恐らくこう思うでしょう、「ゲイカップルが血のつながりもない知的障害児と同居するための裁判? いやあ、裁判には勝てないでしょ」と。そこに決定的な差別意識があるかは分かりません。しかし、映画の中での検事や判事と同じ判断を下すことになることは恐らく間違いないです。「差別するな!」と憤っていた相手と同じ判断を下してしまうわけです。差別や偏見に対して憤っていたのだとばかり思っていたら、ただ自分が好きになった「個人」に「味方したい」というだけだったのです。


それはこの映画の素晴らしい部分です。「個人」を克明に描いている証拠なのですから。しかしこの映画はそれだけでないことは最終場面のマルコ死去の新聞記事によって明らかです。この映画の本当の問いはそこから始まるのではないか、と思うのです。つまり、「「個人」を抜きにした「記号」の集合体となったときも、お前は差別に対して立ち向かおうことができるのか?」という問いです。「「差別、偏見はいけないこと」という自分自身自明だと思っていることをどのような状況でも保つことができるのか?」という厳しい問いがここにはあります。そう、この映画の真に素晴らしい点は、「個人」を克明に描くという優良な映画のマナーを踏みながら、それを利用して観る者の差別の在り処を問い詰めるという重層的な構造にあるのです。


「差別はいけないことだ!」と声高に叫ぶ自分自身を見つめろ。そう言われているような気がします。



公式ホームページ
http://bitters.co.jp/choco/