戸田書店来訪日記 26/5/25(日)

 この日のお目当ては、北方謙三著『岳飛伝9』(集英社)。北方『大水滸伝』シリーズの第三弾である『岳飛伝』の9巻である。北方『大水滸伝』シリーズとは、中国三大奇書の一つ『水滸伝』の北方謙三さんによる解釈小説群のこと。『水滸伝』19巻、『楊令伝』15巻、そして『岳飛伝』17巻の計51巻という壮大な絵巻が最終形態になるようだ。現在『岳飛伝』が月刊文芸誌「すばる」で連載されていて、3ヶ月に一度単行本が発行される。現在僕が発売日を指折り待つ数少ない本の一つである。


毎巻戸田書店高崎店で買っているので、どこに『岳飛伝』が置かれているかはわかっているが、例によって寄り道をしていく。本屋の役割の一つはこの寄り道の中にある。‘楽しみ’ではなく、あえて‘役割’と言いたい。本屋は市民に対しての役割を担う、言わば公共的な存在でもあると僕は考えるからだ。ここで言う‘公共的’とは、市民の成熟にとって必要な要素を持つ存在である、という意味である。では、本屋が持つ市民の成熟を助ける要素とは何か。先ほど寄り道の中にそれはある、と書いたが、それを具体的に言えば、それは本屋が、訪れる人がその時持っている‘関心’に気づかせることである。自分の関心は常に自分で認識していると思ったら大間違い。関心はそれ自体で人の中に気づかれることなく生まれていたりする。気づかれることなく消えていく関心も数多くあるだろう。もしかしたらその方が多いかもしれない。それはそれでしょうがないとしても、何個かに一つの関心には気づきたいと思う。なぜなら、その関心から自分の世界が広がるからだ。自分の中に眠る関心に気づいた時は、その人の世界が広がるチャンスである。それに関係する本やら映画やら音楽やらに接せずにいられない気持ちになる。そして、目覚めた関心を中心に、自然とそれに関係したものを探す、探してしまうといった行動を起こすようになる。関心に気づいた途端、それまでと同じ道を歩いても、全く違う道に変貌していることがある。それまで気づかなかった看板が輝いて見えたり、店が存在感を誇示していたり。テレビを見ていても、ラジオを聴いていても、ネットを見ていても、その行動は同じことである。関心に気づいてしまったら、僕たちはそれに関係したものから目をそらすことができなくなるのだ。世界はそうやって広がっていく。


 市民の成熟に必要な一段階には、‘世界が広がること’があると僕は信じる。世界が広がるとは、自己を拡大させることである。それは自我を拡大させることではない。その逆、自我を薄くすることが自己を拡大させることなのである。換言すれば、他人の存在を知り、その厚みを感じること、つまり自我を薄くする行為こそ世界が広がるということなのである。「他人と一緒に生きていかなければならない」。これである。これこそ成熟の最も大切な要素の一つだ、と僕は思う。

 
 関心に気付くことで世界は広がる。視界が広がるとともに、他者の存在も自ずと目に入ってくる。自分の関心という極めて自己的なものに沈殿することで、他者に出会うというのはとても面白い。しかしそれは僕の経験上、恐らく正しいことである。
 本屋は人に己の中に眠っている関心に気づかせる。視界に入りきらない範囲に並ぶ本、本、本、本の山。その物的存在はネットでは決して感じることができない本屋でしかないものである。そしてそれが人に自分の中に眠っている関心に気づかせる。本屋はそれにより公共的な役割を付加されている、と僕は考えている。
 ちなみに、この日気づいた僕の関心は、日本の江戸古典に対するものである。
小谷野敦著『馬琴綺伝』(河出書房新社)が目に入ってきた。「馬琴」の文字である。それに引っ張られて本を手に取りパラパラとしてみた。購入にはいたらなかったが大変興味深い本だった。そして自分の江戸古典についての関心の存在も知ることができ、それも良かった。
 


 この日の購入本
北方謙三著『岳飛伝9』(集英社
G・ガルシア=マルケス著『百年の孤独』(新潮社)