言葉の選択における「間」について

昨年末〜今年頭にかけて、仕事で新潟県の企業やお店の社長にお話を伺う機会がありました。
全国的だったり、他の企業やお店にはない、そこでしか感じることができないものを提供している会社、お店ばかりでした。
家業として経営を引き継がれた方もいましたが、今のご時世だけあって、
‛ボンボン社長’のような人はいませんでした。
みなさん、高い見識と意欲と想像・創造力をお持ちの方でした。
中でもとても気になったのが、話をしていての心地よさです。
話の内容の楽しさもありましたが、それだけでは説明がつかないような心地よさでした。
空間もあったでしょう。昼下がりという時間帯もあったかもしれません。
アテンドをしていただいた方の雰囲気もあったかもしれません。
それが何なのかよく分からなかったのですが、先日やっと分かった気がしました。
それは「心地よくない話の場」を体験したことによってでした。



先日、ある歴史上の人物の子孫の方の講演会に、仕事の付き合いで行きました。
誰もが知っている人物の7代目とのことでした。
聴衆は300人ほどだったのでしょうか、空席がない状態でした。
講演時間は1時間半ぴったり。その人は予定に1分もずれずに完了させる、という技を見せてくれました。すごいなあ、と思うと同時に、かなり慣れてるんだな、とも思いました。
時間をぴったり終わらせるというだけでなく、講演を聞きながらもこの人が講演慣れをしているのは、たびたび感じました。
メモは用意していたようですが、ほとんどそれを見ることなく話していました。
かなり練習もしているのでしょうし、かなりの講演数もこなしているんだろうなあ、という感じです。
話している途中も詰まることもなく、ホワイトボードを使いながら、スラスラ言葉を繰り出していました。
型の存在が鮮明に浮き出ていて、講演というより、講談といった方がしっくりくるような感じでした。その技には素直に敬意を表したいと思います。時間もエネルギーもかけたのでしょうから。
しかし、聞きながら、聞き終わった後、何とも不快でした。
話の内容は面白いものもあったのですが、不快でした。
その後「なぜ不快なのか?」ということを考えていたところ、それは講演者の方のあまり
のスラスラ加減に対して不快なのだ、という結論に行きつきました。
内容ではなく、僕は講演者の話すマナーについて不快だと思っていたのです。
澱むことなく、スラスラ言葉が出てくる、そのことです。
その理由は、講演者のあまりのスラスラ加減に、「思考」が存在を認められなかったからです。
講演者は何も考えていない。ただ用意された言葉を間違えることなく話すことだけに注力していました。当然、その話自体は長い時間をかけて、しっかり考えられて作られたものでしょう。その過程には「思考」は存在しています。
しかし、仮に過去に「思考」があった言葉であっても、その場で「思考」がなければそれはただの既製品でしかありません。既製品は人を選びません。誰のものであっても良いものです。講演者が誰であっても良い言葉と言えます。それを覚えて、話すことができる人なら。まるで造花です。四六時中、何の変化もなく、今日も、明日も、1年後も変わることなくそこに存在しているもの。
造花を定義するなら、死なない花、と僕は言いたいです。死がない、と言っていい。


7代目の講演は、死がない話、でした。
1年後も、10年後も変わることなく話されるのでしょう。カスタマイズされながら。
今日も、明日も同じものなら、そこには「思考」が必要とされません。
むしろ邪魔とすら言えるかもしれません。「思考」は死なないものを嫌いますから。
「思考」の前後では、その人は変わるし、言葉も変わります。
「死」とは変化です。
「変化しなければ生き残れない!」とかいう昨今の流行り認識のような、‛前向き’で‛積極的’な変化ではなく、時間とともに変化せざるを得ない変化です。
そこに‛前向き’だ、‛積極的’だなんていう空々しいものはありません。
ただ変わっていく変化。それが「死」だと思います。
その変化において、「思考」と「死」は密接な関係にある、のだと僕は思います。


「思考」がないものには「死」がない。
「死」がないものには「思考」がない。


7代目の講演は一部の隙もなく、完成されたものでした。
次の機会に聞いても、一言も違わないものを再現することでしょう。
造花の講演。
そこには「思考」がなく、よって「死」もありません。
「死」がない、とは、つまりは「生きていない」ということです。
そこには「生」がない。
「死んでいる」のはなく、何かの罰かのようにただそこに置かれているもの。



そんな経験をした後に、新潟県でお話を伺った、心地よさを作りだす4人の人を思い出しました。
心地よさの理由は、そこに「思考」があった、ということでした。
それを感じさせてくれたのは、言葉を選ぶ一瞬の「間」の存在です。
0.5秒なのか、0.8秒なのか、正確にはわかりませんが、
ほんの一瞬の「間」が言葉が発せられる前に、確かにありました。
こちらが質問して、先方がそれに答える形において、不自然ではない言葉を選択する「間」。
そして、その「間」は「思考」そのものでした。
この言葉か、違う言葉か、このトーンでよいのか・・・。
無数の選択がわずかな「間」を生み出していたのです。
その「間」の存在に僕はホッとして、心地よさを感じたのです。
「この言葉は生きている」と肌で感じたのでしょう。
もう一度同じことを聞いても、決して同じ返答は返ってこないと僕は断言します。
そう断言する理由は、「思考」の結果の「間」がそこにあったから、です。
生を帯びた言葉は、一度発せられたら死にます。蘇ることはない。
蘇ることがないから、生きているのです。
内容の問題ではなく、言葉そのものです。
インタビューと講演会とでは、そもそも性質が違います。
ただそこで言葉の選択の「間」を存在させるか、させないか、ということに関しては、
全く同じラインにあることもまた間違いないことです。


僕は「生きている」ものを愛でます。
そして、それは「死ぬ」ものを愛でることでもあります。