2013年の本3冊〜その一




この本を知ったのは、本を購入した時に挟んである新刊紹介だったでしょうか、はっきりとは覚えていないのですが、その際の高揚感はよく覚えています。まさにその時の僕の興味のど真ん中だったからです。
昭和維新試論』
「なぜ青年将校と呼ばれる軍人がコトを起こしたのか」
「そもそも青年将校とはどのような軍人なのか」
「彼らの思い、背景には何があったのか」
「彼らを育んだ‘世の中’とはどのようなものだったのか」
など、それら自体に大いに関心がありながら、それらを繋ぐ鎹が薄弱だったのが、この本を知った時の僕自身だったわけです。
昭和維新』というタイトルだったらそれ程グッとこなかったかもしれません。
昭和維新試論』という‘試論’に大いなる可能性を感じました。
この‘試論’という言葉に、「昭和維新に至る」が自ずと含まれ、そこに幅広い時間軸を感じたからです。
定説をなぞるのではなく、己との格闘がそこにはあるはずで、その過程で脱線もするだろうし、行き止まりもあるだろうし、思いがけないブレークスルーもあるだろうし。
そしてそれらが必然的に幅広い時間軸を要することを直感しました。
そしてそれが、僕の分断している昭和維新考の鎹になるのではないか。
ワクワク、ゾクゾクしました。


この本の原本は1984年に発刊されていて、2013年に講談社学術文庫で改めて発行されたようです。(講談社学術文庫、高いのですがかなり頑張っています。)
もう30年も前に書かれたものです。なので、今日読んで目新しいことは書かれていないのかもしれません。僕は昭和維新についての最新知識を知らないので、その辺よくわかりませんが。
しかし、この本の本質は知識を羅列することにはなく、タイトルの‘試論’が示すように、昭和維新に対する「著者の格闘」にあるので、目新しいことがあるない云々は問題ではありません。そのスタイルが、この本を発刊から30年経った2013年にもリーダブルにさせているのでしょう。頭の良い人の知的格闘は、100年、1000年の風雪にも耐えうるものですから。そして、それはまた知識の羅列などより、有益な知見をもたらすものです。スマートではなく、歪な形をしているかもしれませんが。


実際に読んでみて、見事なまでの「格闘」がこの本にはありました。
全15章、暗闇の中を全身の感覚のみを頼りに一歩々々慎重に進むかのような歩みは確かに遅いです。そして、尻切れトンボ感のある章、明確な意味が見えにくい章もある印象です。
その歩みが、事前に整理された道の上ではなく、未知なる道の上にある故です。
まさに「試論」です。己にも分からない道を著者である橋川さんはゆっくり歩んでいます。
そしてその様子は読者にもダイレクトに伝わってきます。
それをまどろっこしいと感じる人もいるでしょうし、それも理解できますが、
僕はそれを好ましく感じます。
そこに書かれていることが既に評価が固まった定説ではなく、橋川さんのその時その時の試行錯誤だからです。
言葉を換えるならば、「閉じられた知識」ではなく、「開かれた知性」だからです。
そこには、一方的に教えてもらう場ではなく、教えてもらいながら一緒に考える場が作り出されます。
「橋川さんも迷いながら言葉を紡いでいる。ならば、自分もその一端を担おうではないか」
そんな生意気なことを思わせてくれるのです。
恐らく橋川さんはそんな生意気な思いにもにこやかに応えてくれるのではないでしょうか。
「試論ですからね」と。
そしてその言葉にはこんな想いも込められているのではないでしょうか。
「この本は知識を獲得するためのものではありません。知性を回転させるためのものですよ。大いに迷いましょう。そして考えましょう」と。


橋川さんは、この本の内容を雑誌『辺境』に連載中の1983年に亡くなり、完成させることができませんでした。それは「格闘」の決着をみることなく、最中のままで終わってしまったことを意味します。出口を照らすことなく「格闘」中にこの本は終わっています。
それがこの本をより体系だった「知識の書」ではなく、開かれた「知性の書」にしていると言えます。完結がないものに対しては、永遠にそれを考え続けることができます。永遠なる「知性の回転」がそこにはあります。
僕は、人から聞いた言葉をあたかも自分の言葉のようにそのまま語ること、人を嫌悪します。
そういう人を「馬鹿」と評価しています。
知識を知識のままにしか活用しない思考力の無さがそこには見えるからです。
知識を知性に変えることがない人は、ただの人の言葉をそのまま話すスピーカーでしかありません。
知識を積み重ねることに重きを置く人にありがちな現象です。
そんなものはある地点になったら役にたたなくなります。ある地点とは、知識が切れる地点です。どんなに多くの知識を持っていても、それはいつか必ず切れます。
知性は永遠に終わりません。たとえ知識が一つしかなくても、知性があればそこからいくつものものを生み出すことができます。だから終わりません。


この本は、知性を鍛える実践の場です。少ない知識から、あーでもない、こーでもないと大量のものを生み出す実践。
このマナーを獲得することは、何百の知識の書を読むことより、重要なことだと僕は思います。ここでの重要とは、役に立つということです。
知性を回転させること。それはどんなジャンルのことであっても、共通に役立つことに違いありません。


そして、当然に橋川さんが知性を回転させて考え出す「試論」は示唆に富むものが多いです。
例えば、昭和維新の源流は明治政府の失敗によるものだ、ということ。
それは、日露戦争後に隠しようもない状況になった、ということ。
それをリカバーするために官僚が「地方」に目を向けたこと。
その結果、「地方」の目覚めがあり、第一次世界大戦後の貧富の拡大などに対する平等感の芽生えがあった、ということ。
それが朝日平吾による安田善次郎暗殺を起こし、その後の要人暗殺のテロ行為にもつながっていった、ということ。
そして軍人の中からもそれと歩調を合わせるものが自然と生まれた、ということ。


これらの示唆は、冒頭にあげた僕の昭和維新に関する各事項の鎹のパーツにもなりそうです。ただあくまでこれらは示唆であり、あくまで断定としない形で提示されているように僕には感じられます。
そしてそれは、
「いつまでも考え続けなさい。知性を回転させ続けなさい」
という橋川さんの言葉のように感じられてなりません。
この本を読了はしましたが何だかそんな気がしないのは、
昭和維新についてまだまだ考え続けているからだろうと思います。


震えるような読書体験でした。