「分からない」の効用


日頃、本を併読するようにしています。
小説、評論、歴史、原発ものなど、複数のジャンルのものを読むようにしています。
ただいつもその通りではなく、その時々の興味関心で、
ある事柄を集中的に読むこともあります。
そんな読書の仕方を長い間続けて来ていますが、
最近「読むものによって、出すものが変わるな」ということにふと気付きました。
出すというのは、書く文章だったり、話すことだったりです。
当然と言えば当然のことなので、さして驚くことでもないかもしれません。
(だからこそ今まで「気付く」といったことにならなかったのだと思います)
しかし、それってかなり重要なことなんじゃないか、と思うようになりました。


現在、
宮本武蔵6」吉川英治さん
「山に生きる人々」宮本常一さん
明治維新の遺産」テツオ・ナジタさん
高野聖泉鏡花さん
「これからどうする 未来のつくり方」岩波書店
を併読しています。
小説、歴史、日本人、評論と違ったジャンルのものなのですが、
これらは僕にとってある共通点があります。
それは「分かる」ということです。
これら全て読んでいて何が書いてあるのかが分かります。
ところどころ難しい部分はあるのですが(「明治維新の遺産」など)、
まあ、何とかなります。
ここに哲学関連の本が入ってくると、お手上げ状態になることがあります。
その読書はある種の苦行でもあるのですが(笑)、
自分が決めたもの=何かがそこにあると最後まで読むようにします。
ただ如何せん門外漢である哲学の分野、
何が書いてあるのか全く分からないことも度々です。
読み終わっても、そこに何が書いてあったのか全く分からない、思い出せないこともあります。
読後、絶望的になることもあります。
「何を読んでたのだろうか。。。。」と(笑)。
仮にその本について、「人に話せ」と言われたら、僕は押し黙ることしかできません。
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」
ではありません。
ただ分からないから話せないだけです(笑)。


そんな僕の読書を、
時間を「有効に使った」か「無駄に使った」かで分類するなら、
迷わず「無駄に使った」に仕分けられそうです。
ただ、とても面白いことに、そういう「無駄な」読書をしている、した直後の方が、考えることに捻りが効いていたりして面白いんです。
その本の内容から得た知識で考えることに味付けをするのではなく(何せ何が書いてあるかわからないのだから笑)、
考える対象に対するアプローチのマナーを本から受け取っている、とでも言いましょうか、考えるそのもの自体の形が急激に変わるような感じがするのです。
分からないからこそ、自分のそれまでの考えるアプローチ方法に対して、
疑念を持つからかもしれません。
「分からないのは自分の考え方が良くないのだ」
という意識が、「考えるそのもの自体を変えろ」と命令しているのかもしれません。
考える対象を指でこねくりまわすのが通常だとすると、
分からない本に接している時はその対象を鷲掴みしたり、足の指で摘んでみたり、口でくわえてみたり、マジックハンドで摘んでみたり、、、。
そんな通常とは違った方法でのアプローチ方法ができるようになります。
それまでには思いもつかないようなアプローチをすることで、
自分でも面白く感じるようなことを書けたり、話せたりします。


ただ、その方法は一度手に入れたらずっと持っていられて、
いつでも出せるかというと、僕の場合は駄目で時間が経つとその効果は弱くなってしまいます。
恐らく、自分の基本的なアプローチ方法があって、
何もインプットするものがないと、その基本形を使うのでしょうね。
それは文体でも同じなのですが、そんな時は自分でもひどく退屈です。
面白くないことを書いたり、話したりしている時は、
自分でも当然つまらないものです。
自分の基本形に自分で飽きているのかもしれません。
これまでに知っている考え方、アプローチ方法、文体などでこねくりまわしたものは、自分で読んでも面白くありません。
そこに陥らないようにするためには、常に様々なジャンルのものを、
「分からない」ものも含めて読むことが重要なのではないかと思います。
注意点は、「分からない」ものだらけだと、自分の愚かさに押しつぶされてしまう恐れがあるので、1つだけにしておくべし、ということでしょうか(笑)。


早速、現在の読書に「分からない」もの、哲学関連のものを加えたいと思います。