「死」について考える


先日叔父が亡くなりました。
生命活動が終わる瞬間を、まじまじと見た初めての経験でした。
首を波打つ脈の動きが徐々に、徐々にゆっくりになっていき、
その間隔も開いていきました。そしてゆっくりになり、間隔が開いた脈の動きは止まりました。
その光景は実に穏やかなものでした。
生命活動が終わる瞬間は、その一瞬に関しては、
どんな状態であれ穏やかなものなのかもしれません。
最後の最後まで生命活動を維持させたものが、
力尽きた瞬間に産み落とされた穏やかさ、と言ったらいいでしょうか。
7ヶ月間の入院生活の中で、痛いことも、苦しいことも、辛いことも
あったはずですが、いざ脈の動きが止まるその瞬間穏やかであったことで、
その生命活動の停止は定めだったのかもしれない、
とふと思いました。



「死」について思います。
「生命活動の停止=死」というのはとても分かり易いし、
辞書的な意味でも正解だと思います。
ただ、
生命活動がある=生 ⇄ 生命活動の停止=死
という明快な二元論に僕はあまり馴染むことができません。
僕がその答えを持っているからではありません。
ただ何となくです。


今年の4月にNHKスペシャルで「家で看取る その時あなたは」という番組が
ありました。
「家で看取る その時あなたは」
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0421/


※この段では便宜上「死=生命活動の停止」という意味で使います。


「在宅死」を扱った番組でした。
家で人生を終えることをいくつかの家族の状況で見て行く内容でした。
その中で、正確な言い回しではありませんが、
「昔は自宅で死を迎える人が多かったが、ここのところ病院で死を迎える人が圧倒的に多い。多くの人から‘死’が遠いものになっている」
といったような言葉がありました。
この言葉が正しいかどうかは別にして、
一つの軸として考えてみたいと思います。


この言葉によると、
自宅で死を迎える=死が近い
病院で死を迎える=死が遠い
となります。
自宅で死を迎えることと、病院で死を迎えることの違いは何かといえば、
死に向かう最中を共有する時間が多い、少ないが一番だと思います。
自宅なら家に帰れば毎日時間を共有できます。
病院だったら、いくら近いと行っても毎日行くのは大変だし、
そもそも面会時間の制限もあるので、当然自宅でよりも時間は少なくなります。


死に目に会える、という面においては、
実はそんなに違いがないのではないかと思います。
自宅だろうが、病院だろうが、危ういとなったら連絡で呼び寄せるだろうし、
事前に状況を把握している際はその準備もしているものです。
様々な機器があり、看護士も多い病院の方がもしかしたら、
その危うさに敏感で、家族や親類を呼び寄せる判断力は高いのかもしれません。


こうやって見ると、
「死が遠い」とは必ずしも、生命活動が停止することそのものから遠い、
といった意味ではないようです。
生命活動が停止する瞬間には、自宅でも病院でも立ち会うことが可能なのですから。
自宅死では近かったけど、病院死で遠くなった、
ということを考えると、自宅死では多かったけど病院死で少なくなったもの、
を考えればよさそうです。
それは先に挙げた「生命活動が停止するまでの過程を共有する時間」です。
その差によって、「死が近い」「死が遠い」の違いがでるようです。


「生命活動が停止するまでの過程を共有する時間が多い」=「死が近い」
「生命活動が停止するまでの過程を共有する時間が少ない」=「死が遠い」


この段階になると、「死」は生命活動が停止すること、
という辞書的な意味でなくなっていることに気付きます。
もっと広い、生命活動がある時も「死」に含まれているようです。
呼吸をして、ご飯を食べて、薬を飲んで、治療を受けて、人と会話して、
笑って、苦しんで、痛がって、衰えていく様に頻繁に触れることが、
上記の前提をふまえると「死が近い」状態にあると言えます。
対して「死が遠い」状態は、それらの様に触れる回数が少ない状態です。


生命活動が終わる瞬間に向けての時間も「死」の範疇にあるわけだ。
そうなると新たな疑問が湧いてきます。
「いつから死の範疇に入っているのか」
という疑問です。


入院して名実ともに「病人」になってからでしょうか。
衰えが見た目にも現れてからでしょうか。
意識をなくして呼吸器をあてられてからでしょうか。


それらは確かに「死」の濃密な時間かもしれません。
生命活動が停止される直前は、日々、時間時間で見た目にも分かる程に
変化していきます。その変化はもちろん衰えです。
身体の色も、張りも、肉厚加減も変化していき、
それはまさに「生気」が失われていく過程と言えます。
もしかしたら、内部では生命活動が一つ一つ停止されているのかもしれません。
そのような過程が、全体的な生命活動の停止に直結することはとても分かり易いです。
その分かりやすさを先ほど「濃密」という言葉で表しましたが、
ただ、濃密でなくとも、僕たちは生まれた瞬間から、
生命活動の停止に向かって歩みを進めていることは間違いありません。
その変化が分かりにくいだけで。
今この瞬間も僕は衰えています。
自覚もなく、他人もそれを感じないかもしれませんが、
それは確かなことです。
僕は生命活動が停止するその瞬間に向かって歩んでいます。
それは当然、この世に存在する全ての人に当てはまることです。
日々見た目にも分かるような変化に裏打ちされた「濃密」さはありませんが、
僕たちは確かに衰え、変化しています。
そこで思うのです。


「死」の範疇は、生まれた瞬間をも含むその人の「生」そのものなのではないか


と。ここで冒頭にあげた明快な二元論
生命活動がある=生 ⇄ 生命活動の停止=死
が腑に落ちない自分の心持ちが理解できました。
「死」は「生」のうちにあり、それらは決して対立するものではないのではないでしょうか。


その二つは、隣り合うとか、表裏一体とかでもなく、
お互いがお互いのうちに存在している。
生命活動を軸に、それの停止に向かう運動が「死」であり、
その一連の運動自体が「生」である。
そして一連の運動自体である「生」は、それによって生命活動の停止への着実な一歩一歩を刻むのである=「死」。


僕が今考えることは、
「死」=「生」であり、「生」=「死」
という関係性です。
言わずもがなですが、これが正解だなんて1mmも思っていません。
卑下しているわけでなく、これは誰にも分からない類いのものです。
なにせこの世にいる人間で生命活動が停止したことのある人は一人もいないのですから。
それは誰も人生を完結させたことのある人間が存在しないことを意味します。
仮に「死」の正解を語れる人がいるとしたら、
その最低条件として、人生を完結させたことのある経験はなくてはならないでしょう。
返す返すそんな人はいません。
だから、この世の人間に「死」の正解を語れる人はいません。


「死」は終わらない問いです。
しかもとても魅力的な問いです。
それは富貴に関係なく、誰もが生命活動の停止をいずれ経験するものだから、
関心のない人がいないことに起因しているのではないでしょうか。
そう考えると、終わらない問いである「死」の存在によって、
人類は思考することを絶えず続けて来られたのかもしれません。
いつの時代の人も「死とはなんだ??」を考え続けただろうと思います。
当然現在でもそうですし、未来もそうでしょう。
しかし正解はでません。終わらない問いです。


僕の「死」についての考えは、終わらない問いに魅力を感じる人間であり続けるならばそのうち変わります。
そうなることを願っています。



叔父のゆっくり動く脈は「死」の範疇にありながら、
それ自体揺るぐことのない「生」だったのだな、と今思います。