五輪招致における「断絶」

「東京は安全」 汚染水問題、釈明に追われる招致委


ブエノスアイレス=阿久津篤史】2020年東京五輪招致委員会は4日、国際オリンピック委員会(IOC)総会のあるブエノスアイレスで初めて記者会見を開き、東京電力福島第一原発の汚染水漏れ事故について、竹田恒和理事長が「現在の東京は水、食物、空気についても完全に安全」と釈明に追われた。また、開催都市を選ぶ7日の総会の投票直前のプレゼンテーションで、安倍晋三首相がこの問題について説明する見通しも明らかにした。


 記者会見はアジア市場の大きさや可能性などを訴えるのが目的で、張富士夫トヨタ自動車名誉会長も出席した。しかし、実際には海外記者からの質問の6問中4問が汚染水関連で、海外からの関心の高さをうかがわせた。


 竹田理事長はIOC委員に書簡を送って安全を訴えたと説明した。そのうえで「政府が責任を持って対応すると安倍首相も発表している。20年五輪にはまったく懸念がない」「東京の放射能レベルはロンドン、ニューヨーク、パリと同じで、絶対に安全なレベル」「福島と東京は250キロ離れている。東京はブエノスアイレスと全く変わらず安全」と強調した。


 当初は英語で答えていたが、度重なる質問に最後は日本語に切り替え、「東京圏には3500万人が住んでいるが、これまで1人も問題があった人間はいない」と訴えた。


 また、竹田理事長はプレゼンテーションに出席予定の安倍首相について「この問題について自ら語ると思う。安心できる説明ができると思う」と話した。


朝日新聞デジタル 9/5(木)
http://digital.asahi.com/special/2020hostcity/articles/TKY201309050019.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201309050019


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このニュースを読んでとても悲しくなりました。
これ以前にも猪瀬都知事も同様のことを先日話していました。
http://www.47news.jp/CN/201308/CN2013083001002339.html


僕は東京五輪招致には最初から今まで反対です。
五輪はこれからの「若い国」が開催すればいい、と僕は考えています。
日本は「老いに向かっている国」だと僕は思っています。
高齢化社会だから、というわけではなく、
経験した大きなピーク(経済、社会制度、人心など)の後処理をしている国が
現在の日本である、と思っているからです。
なだらかに下っていく様をいかにショックの少ないものにするか、
という後処理の巧拙が様々な場面で語られています。
それを「老い」という言葉では表現されることは一般的にありませんが、
僕は「それは老いだなあ」と思うのです。
僕は「老い」に対して肯定的な認識を持っています。
肯定的というか、当然あるものとして受け入れていますし、
くるべきものとして自然のものと思っています。
国も「老い」ます。
後処理が終わって新たな尺度がこの国に生まれる段階になったら、
また日本は「若く」なるでしょうが、それは未来の話です。
現在、日本は「老い」ています。


「老い」ている国に五輪は似合わないです。
日本が五輪招致に躍起になっているのをみると、何だか


「昔はイカしてたんだぜえ」と3、40年前の服を引っ張り出してきて、
盛り場に行く60歳くらいのおじさん


の画を想像してしまいます。
そんな画観たことありませんが(笑)。
「お父さんやめて!」という娘の声が聴こえてきそうです。
(猪瀬さんの海外でのスピーチの恥ずかしさはまた別物ですね笑)


五輪は若いものに任せておけば良い、
という思いから、僕は五輪招致には反対でした。
そんなどうでもいい理由で反対をしていましたが、
冒頭引用したニュースを読み、反対は確固たるものになりました。


「東京は大丈夫」


どんな文脈で語られたのかよくわかりません。
竹田さんや張さんの言葉がどういう風に切り取られたのでしょうか。
その不明瞭さはありますが、


「福島と東京は250キロ離れている。東京はブエノスアイレスと全く変わらず安全」


という言葉が、そのまま語られていたのなら、
どんな文脈であれ、悲しく、悔しく、怒りさえ感じます。


東京五輪招致を目的にする人にとって、
「東京は問題ありませんよ」ということはその目的に直線で
繋がるとても大切なことだと思います。
それは職務に忠実な態度だとも思います。
その態度は褒められるべきものかもしれません。
ただ、その過程で福島を出し、「福島は危険ですが、東京は安全です」と口にすることを僕は到底受け入れられません。
それは「福島は安全なんだからウソを言うな!」という思いからではありません。確かに福島県原発周辺は極めて危険でしょう。
そんなことは世界中が知っていることで、隠しようもありません。
僕が受けいれられない理由は、
「福島は危険ですが、東京は安全です」
という言葉が、「断絶」を生むものだからです。
それは「福島」と「東京」の断絶という真っ先に浮かぶものだけではないでしょう。
例えば、原発が在る道県と無い都府県。
電力生産地と電力消費地。東北と関東。
そして、地方と都会などなど。
いくらでも形を変えてその「断絶」は生まれ得ます。


「断絶」はこれまでもあったものだと思います。
古くは田中正造足尾鉱毒事件の時にも、東京と栃木の「断絶」はありました。
東京集中の国造りにおいて、常に東京はそれ以外の道府県からの‘貢ぎ物’で巨大化していくことは、ある意味自然なことだったと言えます。そこには当然数多くの「断絶」が生まれたことは想像に難くありません。
「存在していたこと」と「その存在を表に出すこと」は違います。
今回の竹田さんの


「福島と東京は250キロ離れている。東京はブエノスアイレスと全く変わらず安全」


という言葉は、「断絶」の存在を表面に浮かび上がらせる契機となるものと僕は推測します。
今後、福島が語られる際、この「断絶」を念頭に置いたものにならざるを得ないのではないでしょうか。
存在しているだけなら人々はそれに言及せずに済みます。
物事を進めるために敢えて触れないという対応も可能です。
しかし、その存在が誰の目にも触れるものとして浮上してしまったら、それに触れざるを得ません。言及しないわけにはいきません。
「断絶」が表面化する中で、両者が協力し合うことができるのでしょうか。


「東京は福島と違うんだ」=「お前と俺は違う」
という容赦のない蔑みの言葉は、強烈な怨念を生むでしょう。
五輪誘致という一点の目的のために、
「断絶」を表面化させることが、果たして‘国益’になるでしょうか。
五輪は2020年で終わります。
「断絶」はいつまでその力を有して人々を苦しめるのでしょうか。



何が「絆」ですか。
何が「がんばろう東北」ですか。


とても悲しく感じます。
この「断絶」は、福島と東京だけのものではありません。