今日の一冊〜『摘録断腸亭日乗 上下』永井荷風

明治〜昭和にかけての作家・永井荷風の日記です。
「断腸亭」とは東京市牛込区の邸宅の名であり、「日乗」とは日記のことです。
1917(大正6)〜1959(昭和34)までの40年以上の長きに渡る日記です。
その間、関東大震災満州事変、日中戦争、太平洋戦争、敗戦、占領、朝鮮戦争サンフランシスコ講和条約と、歴史の年表で太字になるような事柄が満載です。
この日記には、永井荷風という有名作家の目を通した日本が広がっています。
僕は(特に)戦前、戦後の日記が好きです。
誰が書いたものでも好んで読みます。
職工さんのでもいいです。主婦のでもいいです。教師のでも、兵隊のでも、政治家のでも、誰のものでいいです。
当時の日本というものが知りたいので、どんな目線からのものでも
僕にとっては有り難い情報になります。
書いてある内容だけでなく、言葉遣い、文の長さなども重要な情報です。
それらもまた時代を反映させたものだと思うからです。
時代の息遣いを感じたいのです。
この本もそんなことを意識して読みました。
「作家の目線での当時の日本とは??」といった意識です。


この本は、磯田光一さんという方の編集で摘録です。
全部の日記が載っているわけではありません。
お墓参りにいった、銀座のカフェーにいった、浅草にいったなど、
本当にいわゆる日記です。小難しいことがない、行動録といった感じです。
その中で当時の女性の服装や街(町)並み、風俗などが、
永井荷風自筆のイラストなどとともに紹介されています。
それだけでもとても嬉しいのですが、
戦争など、その当時の「事件」に対しての記述はあまりない印象です。
それらについても当時の人がどのように思っていたのかを知りたかったので、
期待はしていたのですが、読み終わると
「書きたくなかったものは書かなかったのだろうなあ」
という妙な納得をしたことを覚えています。


しかし、上下巻で850ページくらいあると思うのですが、
何が書いてあったか僕はほとんど覚えていません。
なんとなく覚えていることを上に書きましたが、
他に覚えていることといったら、森鴎外への敬慕、子供が嫌いということと、
アメリカとフランスが好きなので日本は戦争に負けてしまえ、
という当時では声にしてはいけない声くらいでしょうか。
記憶にないということは、
二二六事件や太平洋戦争開戦や敗戦など、大きな出来事に対してもさして
紙面をさいてはいなかったのだと思います。


人間は本を読んでも、内容の1、2割しか覚えていないと言われているそうです。
お恥ずかしい話、僕自身は実感として1割以下だと思います(笑)。
ほとんど覚えていないこともあり、愕然とすることしばしばです。
どうしたもんかと思うのですが、
そんな僕を励ましてくれる話に出会いました。
『考える人』という雑誌に掲載されていた村上春樹さんの講演録です。


「いつも和気あいあいとした愉快な会話で、もちろんずいぶん教えられるところもあったんですが、どんなことを話したか、内容はよく覚えていません。(中略)僕らがたびたび会って話をして、でも何を話したかほとんど覚えていないと、さきほど申し上げましたが、実を言えば、それはそれでいいんじゃないかと僕は思っているんです。そこにあったいちばん大事なものは、何を話したかよりはむしろ、我々がそこで何を共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。」


― 魂のいちばん深いところ 河合隼雄先生の思い出― 
             『考える人』2013年夏号 P105


河合隼雄さんについての講演の一節です。
今年5月に河合隼雄物語賞・学芸賞創設を記念して行われた講演とのことです。


これを読んだ時、ふと『摘録断腸亭日乗』と永井荷風が頭に浮かんできました。
覚えている、覚えていないで言えば、僕の場合、ほとんど全ての本が当てはまってしまいます(笑)。
なので、村上さんの言葉


「もちろんずいぶん教えられるところもあったんですが、どんなことを話したか、内容はよく覚えていません。」


に反応したのではないのだろうと思います。
「覚えていない」ということなら、ほとんどが当てはまるので
もっとたくさんのものが思い浮かんでもいいはずです。
わざわざ永井荷風が出て来たわけです。
それを素に考えると、僕はここに反応したのだと思います。


「そこにあったいちばん大事なものは、何を話したかよりはむしろ、我々がそこで何を共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。」


永井荷風と僕が何かを共有しているわけではありません。
そんなことはありえません。
ではなぜにこの言葉により永井荷風は召還されたのか。


村上さんの「共有していた」ということ自体が、その固有の意味を超えて、
‘善きもの’というイメージで僕に迫って来ました。
「何を話したのか覚えていないけど、何か‘善きもの’を受け取っていた」
という(勝手な解釈で恐縮ですが)言葉によって、
自分の経験を思い浮かべたのだと思います。
そして、その経験のうちに永井荷風がいたのだと思います。
それは、永井荷風が僕にとって、‘善きもの’を与えてくれた人であることの
証左とも言えます。
そういう存在であるからこそ、この文脈で永井荷風が出て来たはずですから。
僕は『摘録断腸亭日乗』を読むことで、
その内容はほとんど覚えていないけど、永井荷風から‘善きもの’を受け取っていたのです。



その段階になってやっと永井荷風から受け取った‘善きもの’の存在を思い出しました。
僕は確かに受け取っていました。それは先述した
「書きたくなかったものは書かなかったのだろうなあ」
に基づく永井荷風の佇まいそのものでした。
戦時中、多くの作家が戦争賛美の作品を書きました。
信念のもと自ら書いた作家、世の中、軍部への迎合で書いた作家、
嫌だけど書いた作家など様々だったと思います。
1937年日中戦争〜45年敗戦までを戦時中とするなら、
永井荷風が書いた作品は『濹東綺譚』のみです。
それも1936年に私家版でだし、翌37年に朝日新聞で連載されたもので、
内容も作家と娼婦の話で、時期的にも内容的にもおよそ戦争とはほど遠いものでした。
つまり、永井荷風は作家として戦争に対して無関心であり、
決して受け入れることがなかったのです。
それは「戦争反対」といった主義主張ではありません。(それもあったかもしれませんが)
そういうことではなく、ただ戦争にまつわる諸事である横暴になった軍部、誇りもなにも失った政党政治家、飾り気のなくなった社会、下品になり、粗暴になり、抑圧的になり、そして熱狂した民衆に対して、
異常な嫌悪感をもったから、なのだと思います。
さきほど「作家として」と断りを入れましたが、
恐らく、人間としても戦争にまつわる諸事が、永井荷風を戦争に対して無関心にさせたのではないかと想像します。
僕は確かにその永井荷風の佇まいを、『摘録断腸亭日乗』より受け取っていたのです。



僕は世の中の熱狂に恐怖を感じます。
多くの人が一つのものにワーっと押し寄せることに対し恐怖します。
その対象がたとえ‘善’であっても。
ワーっと押し寄せる過程で人は粗暴になり、言葉遣いが荒くなり、
マナーを無視し、そして、同調しない人を排撃します。
それは有史以来、至るところで見られた人類的因習と言えるかもしれません。
戦時中の日本はまさに(表面的な部分もあったかもしれませんが)そのような状態だったのではないでしょうか。
永井荷風はそのような状態で「無関心」を決め込み、
せっせと浅草や銀座に通います。
この時代、「無関心」でいることは極めて難しかっただろうと思います。
まず自分自身が気になります。周囲の人がそれを許さない空気も作るでしょう。
そう考えると、永井荷風の「無関心」は、積極的「無関心」であったと言えます。
まわりが燃え上がるような熱狂を作る中、
流されることなく、自分の地場から一歩も出ることなく、
「無関心」を選択することの困難さは、いかばかりだったでしょうか。
僕はその永井荷風の佇まいに深い敬意を抱かずにはいられません。



村上春樹さんの言葉で、
永井荷風から受け取った‘善きもの’がふと目の前に広がってきました。
内容それ自体はほとんど覚えていませんが、
永井荷風の佇まいはしっかり記憶していました。