今日の一曲〜「放射能」Kraftwerk




先日来日公演を行ったクラフトワークの曲です。
もともとは1975年にリリースされたアルバム『放射能』に収録されていた曲ですが、
福島第一原子力発電所の事故のことも追加された日本語ヴァージョンも、
現在はライヴで披露されているそうです。
坂本龍一さんが日本語訳をしたとのことです。


原子力爆弾が落とされた広島や、原発事故があったチェルノブイリハリスバーグスリーマイル島がこの郊外)、セラフィールド(イギリス。再生処理施設がある)など、
放射能に汚染された都市の名が連呼されていきます。
その中に「フクシマ」が追加されました。


通常の歌のようにAメロ、Bメロ、サビみたい作りでは当然なく、
至ってシンプルな曲です。
聴くと興奮します。身体が熱くなって、脳がかゆくなります。
(僕は興奮すると脳がかゆくなるのです笑)
そして「何か書きたい!」と思うのですが、
いざ書こうと思っても何の言葉も出てきません。
今もそんな状態でキーボードを叩いています。
そんなモゾモゾした感じなのですが、聴くものの「言葉が出ない」ということはクラフトワークにとって当然のことなのかもしれません。
クラフトワークは言葉を超えた存在なのではないか、と思うからです。
それは彼らの音楽が、歌ものではなく電子音を使ったテクノミュージックだから、ということとは関係ありません。
仮に歌ものをやったとしても、彼らは「言葉を超える」存在になると思います。



「言葉を超える」とは何か。
端的にいえば、人に伝達することを目的とした‘意味’として表現するのではなく、‘意味’では表現できない直接身体に体当たりしてくるような速さと強さと美しさをもった‘非意味’を表現することです。
全然端的ではないですが(笑)、僕はその‘非意味’で表現されたものを「塊(かたまり)」と呼んでいます。
その「塊」は、はなから伝達を目的としていません。
その意味で、それは「言葉の支配から逃れている」と言えます。



どんな人間も言葉の支配から逃れることはできません。
世界一凶悪な人間でも目の前の人を呼ぶ時、
「おまえ」だか、「そこのバカ」だか、「くそ野郎」だか何だかわかりませんが、言葉を使うしかありません。それも自分が知っている言葉で、です。
当然知らない言葉を使うことはできません。
自分の知っている言葉で物事を考え、自分の知っている言葉で人に考えや想いを伝え、自分の知っている言葉で文章を書きます。
そして他人からは「自分の知っている言葉」を使う自分を、自分として認識されます。
「ああ、この人、目の前の人のことを「君」って言うんだ」と他人に思われれば、自分は「目の前の人のことを「君」と言う人」と認識されます。
無数のそんなことによって、自分は他人から「◯◯な感じの人」と認識されます。
自分の行動は自分の知っている言葉によって規定され、
他人からはその行動によって自分を規定されます。
社会で生きて行く中で、言葉の支配から逃れることはできません。
しかし、人間はその支配から逃れたい、と無意識のうちにでも欲望しているのではないかと思います。
恐らくそれが形となるのが芸術活動なのではないかと思います。
絵を描き、音楽を作り、陶芸をし、演劇をつくり、詩をつくり、小説を書く。
その形は様々ですけど、その大いなる目的は、
言葉の支配から逃れることなのではないでしょうか。



言葉の支配から逃れるということは、
当然言葉の‘意味’からも逃れることでもあります。
言葉の支配を決定づけているのは、その‘意味’による部分も大きいからです。
「伝達する」という社会の中で極めて重要なことは、
みなが共有する言葉の‘意味’の存在によって初めて成り立ちます。
みなが同じ言葉の‘意味’を理解しているから、伝達することができます。
社会で生活するなら伝達は必須なことであり、
誰も伝達から逃れることはできません。
それは言葉の‘意味’から逃れることができないということと同義です。
そのことに我慢ならない思いが強烈な人は、
芸術活動に向かうのだと思います。
芸術活動は言葉の支配から逃れることであるとさきほど書きましたが、
同時に言葉の‘意味’から逃れることでもあるからです。
言葉の‘意味’から逃れるため、言葉を使わずに芸術活動をする人もいるし、
言葉を使いながらそれをする人もいます。
いずれにせよ、言葉の‘意味’というみなが共有するもの=ルールによる支配
から逃れることを目的とするものは、
‘意味’では表現できない直接身体に体当たりしてくるような速さと強さと美しさをもった‘非意味’を表現に当然向かいます。
「言葉を超える」方向です。
それが成し遂げられるかどうかはまた別の話で、
そこに向かう人は芸術家である、と僕は思います。



さて、クラフトワークです。
冒頭の方に書きましたが、クラフトワークは「言葉を超える」存在です。
言葉の支配から、言葉の‘意味’から逃れることを目的とし、
実際に高いレベルでそれを成し遂げていると言えます。
今回取り上げた曲「放射能」は、歌詞といったら「ヒロシマ」「チェルノブイリ」「ハリスバーグ」「セラフィールド」「フクシマ」です。
それらの言葉にはもちろん固有の意味はありますが、
この曲の中で歌われる時全く違うものに変形し、
聴く者の頭を通り越して、身体そのものに体当たりしてくる「塊」と化しています。
当然曲もクラフトワークの目的内のものとして「塊」です。
優れた芸術とは、この「塊」が強烈であるものである、と僕は考えます。
言葉の支配から、言葉の‘意味’から逃れた「塊」の強度、それが芸術の質を決定するものだと思います。
言葉がある、なしではありません。
言葉の支配から、言葉の‘意味’から逃れているかそうかが重要なのです。
だから小説でも詩でも俳句でも当然芸術になり得ます。


例えば、中原中也の『汚れちまった悲しみに』という詩。
頻出する「汚れちまった悲しみに」というフレーズは、
「汚れた」「悲しみ」という‘意味’とは全く関係のない「汚れちまった悲しみに」という「塊」そのものです。この形でしか表現できないギリギリの「塊」です。
読んだ瞬間にその「塊」は一気に全身を打ちのめします。
そこには途轍もない強度を感じざるを得ません。
例えば、ジョン・レノンの『イマジン』。
「Imagine there's no Heaven」
例えば、たま『パルテノン銀座通り』。
「ぼくらは時々恋人になって/くるったように踊りを踊りつづけて/ぶっこわれた笑い方を楽しみ そうして/言葉を全部うしなった夜に沈もう/何度も同じ場所で/何度も似たような事をしよう」
例えば、髭『電波にのって』
「電波にのってね/イギリスに飛んだぜ/いろいろあって/アメリカになって/スプーンになって/三毛猫になって/路地裏になって/魂になって」
例えば、オアシス『Don’t Look Back in Anger』
「At least not today」


言葉がある、なしではないのです。
言葉があっても、なくても、その支配から逃れるもの、その‘意味’から逃れるものこそ芸術なのです。
僕はそんな風に思います。
(だから、クラフトワークが仮に歌ものを作っても、芸術になるであろうことは間違いないだと思います)



芸術には言葉はいらない、とはまさしくその通りで、
芸術はそういうものなのだと思います。
だから、クラフトワークの作品がどうなのか、ということを僕は言葉で説明することができません。
できることは、言葉で説明できないことを言葉で説明することくらいなのです。