日本民族の喜びとそして哀しみと


それは小津安二郎監督の『東京物語』を観ることができることであり、
黒澤明監督の『七人の侍』を観ることができることであり、
山田洋次監督の『寅さん』シリーズを観ることができることです。
川島雄三監督の『幕末太陽伝』を観ることができることであり、
今村昌平監督の『楢山節考』を観ることができることであり、
北野武監督の『HANA-BI』を観ることができることです。


もちろん外国の方もこれらを「見る」ことはできます。
しかし、日本語を母語にしない人は「観る」ことはできません。
日本語がもつニュアンス、その日本語が成り立つ社会、歴史、常識、風俗、空気などは、日本語が母語である環境にいることで感じることができるものです。
上記のような素晴らしい映画は、
それらが高い濃度で結実した「日本」のものです。


言語はただの伝達手段ではありません。
歴史、文化、気質、環境、美点、汚点などが織り込まれた、
その民族の最たる結晶の一つです。
日本語には、日本民族の歴史、文化、気質、環境、美点、汚点などが
織り込まれています。
どんな物質を表す言葉があるか、ないか。
どんな感情を表す言葉があるか、ないか。
どんな概念を表す言葉があるか、ないか。
どんな自然現象を表す言葉があるか、ないか。
それぞれの民族の歴史、文化、気質、環境、美点、汚点などで、
その答えは変わります。
日本語にあって、他の言語にないもの。
他の言語にあって、日本語にないもの。
歴史、文化、気質、環境、美点、汚点などの違いがその変化をもたらし、
そして、それらの融合の果ての果実の一つである言語が、
その民族がその民族である由縁であり、必然でもあるのです。


なぜ主語を省くことが多いのか、それが可能なのか。
なぜ自分のことを「僕」「私」「てまえ」「私(わたくし)」「俺」「わい」「おら」など、複数で表すことができるのか。
なぜ平仮名、片仮名、漢字と、3種類も文字があるのか。
そして、なぜそれらを同時に使うことができるのか。


それらのなぜ、なぜ、なぜ、の答えが
日本民族の歴史、文化、気質、環境、美点、汚点などによるものであり、
日本民族の姿でもあります。


日本の歴史は、日本語という共通項によって貫かれています。
もし日本語を失えば、日本民族は歴史を失います。
文化を失います。気質を失います。美点を失います。汚点を失います。
そして、日本民族でなくなります。



素晴らしい日本映画は、そんな「日本語」で創られたものです。
それらを「観る」ことができるのは、日本民族の特権です。
そしてそれは同時に日本民族には、
ガス・ヴァン・サント監督の作品、ケン・ローチ監督の作品、
クエンティン・タランティーノ監督の作品、
フランシス・フォード・コッポラ監督の作品、
アミール・ナデリ監督の作品、ジム・ジャームッシュ監督の作品
を「観る」ことができないことも意味します。


その哀しみを哀しみと想い、認識する者だけが、
日本映画を「観る」ことができる喜びを知ることができるのです。