昨日買った本

リア家の人々 (新潮文庫)

リア家の人々 (新潮文庫)


橋本治さんの作品はがとても好きです。
といっても、小説より、評論などの方が読んでいる数は多いです。
始めて僕が読んだ橋本治さんの書かれたものは、
恐らく、『上司は思いつきでものを言う』だったか、
『人はなぜ「美しい」がわかるのか』だったかだったと思います。
いずれにせよ、小説ではありませんでした。


橋本治さんの文章は一見平明なものです。
小難しい単語はそれほどなく、文章自体も癖なく文飾華々しさが目立つような技巧的なものではありません。
すらすら読めます。
しかし平明ですらすら読めるのに、その先でふと立ち止まると、
迷路に入ってしまったかのように、周囲を不安げに見渡してしまっている自分に気付きます。「あれれ、どこにきちゃったんだ??」と。
何だか知らぬ間に今まできたことにない場所に連れて来られてしまう、
という不安感とワクワク感が混在する感覚が、橋本作品を読んでいる時に
たびたび襲ってきます。
橋本治さんが連れて行ってくれるその「場所」は、
とても示唆に富んでいる、深さが分からない深さを持った魅惑の場所です。
同じ作品の中で、何度も何度も同じ事を手を換え品を換え、考え、文章にしていくのが橋本治さんのスタイルです。
その思考の耐久力は途轍もない、と思います。
思考の射程距離がとんでもなく長い。
一般的な前提を前提とせず、その前提の前提から思考を始めるのが、
橋本治さんの常です。
だから、その前提に無思慮に溺れている僕などは、
前提の前提を語る橋本治さんの文章を、
「ああ、まあ当たり前だよね」なんて思いながら読み進めていると、
いつしか「あれ、どこだここ??」といった迷子状態になってしまうのです。
橋本治さんの前提の前提の検証によって、
僕の前提などは豆腐の城の如く、あっけなく壊れさっているからです。
それに気付かず読み進めてしまうと迷子になってしまいます。
平明な文章だからこそ、そのお城壊滅の劇的性にも気付かず、
読み進めてしまうのです。
そして、ふと「ここはどこだ??」と自分の前提が壊れていることに
気付いた時、自分の不明を恥じつつ頭をポリポリ掻きながら、
本のページを前に戻すのです。
橋本治さんの文章を読むことはその繰り返しです。
いつになったら橋本治さんと歩調を合わせることができるのか、
と我ながら思います(笑)。


小林秀雄の恵み』という作品で橋本治さんは小林秀雄さんのこのような文章を引用しています。


「私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。」


立ち止まる場所、後を振り返るタイミングの差異はあるのかもしれませんが、
まさに橋本治さんの文章の構造と似ているのではないかと思います。
僕はそんな橋本治さんが書かれる文章が好きです。



そんな文章を書かれる橋本治さんの小説には、
深い信頼感を寄せています。
昭和三部作と言われる『橋』『巡礼』と『リア家の人々』。
橋本治さんの射程距離の長い思考が描く「昭和」がとても楽しみです。



方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)


東日本大震災後、『方丈記』は話題になりました。
その内容にある、地震や天災のこと、それに関連する無常観などが、
その話題になる要因の一つだったと思います。
生来のひねくれ体質な僕は、そのタイミングでは飛びつきませんでした。
横目で見ながら手には取らない日々が続きました。
まあ、どうかと思いますが(笑)。


そんな僕に『方丈記』のタイミングがやってきました。
昨日『原子力と宗教』という、鎌田東二さんと玄侑宗久さんの対談本を
読んでいたのですが、その中に『方丈記鴨長明についての話が出てきました。
原発関連の本にはけっこう出てくるのでそれも不思議ではありませんが、
今回は松田聖子さん風に言えば「ビビッと」きました。
何にきたか。
原子力と宗教』の中で、玄侑宗久さんだったかが、
鴨長明のある種の貴族とそれを捨てた出家人の間にある‘揺らぎ’が良い」
といった内容のことを話していました。
恥ずかしながら、そこで鴨長明という人が、
地位のある生まれでありながら、そこの跡継ぎになれずに出家した、
ということを知りました。
さらに、それでも俗っぽさから抜けられずに‘揺らいで’いた、
ということも知りました。
そこに「ビビッと」きたわけです。


最近、‘トリックスター’に興味があります。
トリックスター’、wikiによると、
「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、全く異なる二面性を併せ持つのが特徴。」
とあります。
これを僕は
「二つの世界に両足を突っ込んでいる。二つの世界に顔が効く」
と解釈しているのですが、歴史上においても、
現在の世界、社会においても、この要素はとても重要なものなのではないか、
と考えています。
鋭く対立する2つの世界の両方に知り合いがいて、
「まあ、まあ、まあ、ここは私の顔に免じて」
と言える‘トリックスター’。
日本の歴史上では、坂本龍馬がそうであったと思いますし、
西行もそうだったと思います。
そこに鴨長明も入るのではないか??という期待込みの想像により、
今回『方丈記』を買ってみました。
古典を勉強したいと思ってもいたので、
そのとっかかりにも良さそうという理由もありますが(笑)。



完本 日本語のために (新潮文庫)

完本 日本語のために (新潮文庫)



「子どもに詩を作らせるな、文学づくのはよそう、分かち書きはやめよう、完全な五十音図を教えよう、正しい語感を育てよう……など、国語教科書をめぐる考察。」
という裏表紙の文章のみで、グッときました。
昨今の「小さい頃から英語教育!」熱から、一歩も二歩も百歩も距離を
置いている自分としては、とても興味がそそられる文章です。
「流暢な(笑)英語を話せても、日本語を疎かにしていたら‘考えること’ができないだろ。そんな空疎な英語で何ができるんだ」と僕は考えていますが、
その前提の前提にある
「日本語を疎かにしない、とはどういうことだ??」
という、橋本治さんにも通じる前提の前提話がこの本にはあるのかな、
と想像しています。
想像の通りでも、想像外でも、丸谷才一さんの言葉自体が楽しみです。