最近買った本

久々に本を買いました。
10月に買い過ぎたのと、11月はお金がなかったという簡単な理由によりw


本にだって雄と雌があります

本にだって雄と雌があります

 


この本はラジオを聞いてたら、書評家の豊崎由美さんが紹介していて知りました。
特に豊崎由美さんのことが好き嫌いはないのですが、
その紹介っぷりに力が入っていたように感じられたので、
「そこま言うなら」という気になって購入しました。


本のタイトル通りに「本には雄と雌があります」といったことを本線に、
「雄と雌なんだから子供(本)が生まれます」となり、
「それを集め好事家がいます」といった話になります。
まだ途中までしか読んでないのでこんなシンプルなことしか知りませんw
くくりとしては、ファンタジーになるようです。
文体が森見登美彦さんを思わせる感じで、
くすっと笑ってしまう箇所が多数あります。
これから読み進めるのが楽しみな一冊です。


橋本治という立ち止まり方 on the street where you live

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live


敬愛する橋本治さんのエッセー集です。
2009年の政権交代から11年の東日本大震災までについて扱っているようです。まだ読んでないの、amazonからですが。



橋本治さんの書かれたものを読むと、文章を書きたくなります。
何でだかはわかりません。
理由はわからないけど、そういう作家の方に出会えたことは大変嬉しく思います。
橋本治さんの作品は無条件で読みたいと思っていますが、
この作品は本のタイトルからいって素晴らしい過ぎます。


橋本治という立ち止まり方」


「経済成長」「成長戦略」「成長し続ける」「前向きに」「ポジティヴに」
そんな言葉で溢れかえる現在の状況に、心の中で中指を立ててる僕にとっては、「立ち止まる」という言葉がとてもとても魅力的に映ります。


「何でもかんでも新しく出て来たものに飛びつかないで立ち止まって考えてみれば」
「成長はけっこうだけど、それをすることでのマイナスについて立ち止まって考えてみれば」
「そもそもあなたの言う‘成長’は‘成長’なのか、立ち止まって考えてみれば」
「あなたの言うことはわかった。でも、一度立ち止まって検証してみれば」



僕は常々こう思っています。
この本がこういうことを言っているのかはわかりません。
ただこの本を、改めて立ち止まって考える機会にしたいです。
そういう機会を与えていただいた橋本治さんにまたまたまた感謝です。





劇作家の平田オリザさんのコミュニケーション論です。(読んでないので多分w)
平田オリザさんの存在は以前から知っていましたが、
最近読んだ内田樹さんのブログでグッと身近になりました。
http://blog.tatsuru.com/2012/10/20_0951.php  ちなみに、この記事中のメインテーマ想田和弘監督の『演劇1』『演劇2』が、高崎のシネマテークという映画館で上映されるようです)
内田樹さん経由がここ4、5年かなり多いですw 橋本治さんもそうですし。


amazonの本紹介によると、


たしかに、中高年の多くの管理職の人たちは、「近頃の若者はコミュニケーション能力がない」と嘆いています。はたして本当に「ない」のでしょうか。

そもそも、それほどまでに企業が要求する「コミュニケーション能力」とは、いったい何なのでしょうか。



とあります。
こういうことが書かれている本のようです。


コミュニケーションについては以前から関心がありました。
その範囲はあまりに広く漠然としているのでもう少し焦点をあわせると、
「コミュニケーションの継続性」
についてです。
どういう状況がコミュニケーションを誘発し、継続させるのか。
僕は学者でもなんでもないのでその‘正解’は知るはずもありませんが、
一つ思うことは
「この人のことを‘知らない’という自覚がコニュニケーションを駆動させ、促進させるのではないか」
ということです。



ここには二つの核があります。
一つは、文字通り対象の人について「知らない」ことがある、ということです。
100%他人のことを知ることなんてあり得ないと僕は思っているので、
これは誰でもクリアできるように思いますが、
例えば恋人通しで「お互いのことは全部知らなければいけない。何も隠さず話す、見せる」といった共有認識がある二人では、意識の上では「私たちは100%相手のことを知っている」になり、ひっかかります。
知らないことは悪なので、それを常に埋めようとし、
更には実際知らないことはあるにもかかわらず、そこに意識をもっていかず無いものとすることさえあるのではないかと推測します。
「何でも知らなければならない」という人は、「知らない」ことがある、というということを認めません。
そういう人は、「知らない」ことがない、ので、
僕が考える「コミュニケーションの駆動促進」の条件の枠から外れます。



二つ目は、「‘知らない’という自覚」を相手に対して持つか、ということです。
言葉を換えれば、「‘知らない’という自覚を持つくらいにその人が気になるか」となります。
嫌いは好きの裏返し、と言いますが、その感情のベクトルは正反対でも、
感情が激しく動いていることに関しては共通しています。
そういう意味で、好き嫌いの反対語は「普通」なのかもしれません。
好きでも嫌いでもない普通。
なぜなら、「普通」は感情が動かされないからです。
好きな人が何かすれば当然感情が動きます。嫌いな人も嫌な感情かもしれませんが、動きます。しかし、普通の人が何をしても気にもならないし、感情は動きません。
普通の人に対しては、「‘知らない’という自覚」は持ち得ません。
知らなくても気にならないから、知らないということすら自覚しません。
それを持ち得るのは、自分の感情を動かされる時です。
そういう人に対してです。
では、感情を動かされる人=好きか嫌いかの人であれば、
「‘知らない’という自覚」を持ち得て、コミュニケーションが駆動促進されるのでしょうか。
当然のことですが、そんなことありません。
嫌いな人とコミュニケーションをとりたいと思う人はそれほど多くはないのではないでしょうか。
感情が動かされるという点では、好きな人と嫌いな人は同じかもしれませんが、当然その向かう先は逆方向です。
前提の前提のような感じですが、コミュニケーションを取りたくなるのは、好きな人、とです。
この段最初の
「‘知らない’という自覚」を相手に対して持つか、
に戻れば、好きでも嫌いでもこの自覚をもつことはできるが、
コミュニケーションの根本として、それは好きな人が前提になる、
といった感じになりますでしょうか。



上記二つのことをまとめると、
コミュニケーションを駆動、促進させるには、
1、その対象について「知らない」ことがある。
2、「知らない」という自覚をその対象にもつくらい好きである
ということになります。


逆に言えば、
「この人のことを全て知った」
と思ってしまった時点で(実際は知らなくても)、その人とのコミュニケーション意欲は一気に失せる、と言えます。
「知らない」から「知りたい」のです。
「知りたい」ほど好きなのです。


これからもこの人とコミュニケーションを取り続けたい
と願うならば、全てを知ろうとしないことが肝要なのではないでしょうか。
僕はそんな風に考えます。



なんだかよくわからないことを書き続けましたが、
この本を読むのが楽しみですw





岳飛伝 三 嘶鳴の章

岳飛伝 三 嘶鳴の章


問答無用の「岳飛伝」
北方水滸伝の最終章の3巻です。
北方水滸伝は、「水滸伝」19巻、「楊令伝」15巻、「岳飛伝」17巻の計51巻となる予定だそうです。
現在「岳飛伝」が雑誌で連載中で、3ヶ月に1度書籍となって新刊が出る状況です。


今年の僕の核の一つは、間違いなく北方水滸伝です。
2月頃でしょうか、じょにさんにオススメされてその帰りに本屋で買った「水滸伝1」。文庫でした。
その時点で19巻あることは知っていましたが、
読み始めてすぐに「ああ、もう19巻しかない」と寂しくなったのを今でも覚えています。
それくらい物語は面白いし、登場人物がかっこよかったのです。
子供の頃に漫画で「横山光輝水滸伝」を読んだことがあったので、
その話の流れはだいたいわかります。
物語の進み方もですが、登場人物の多くが死んでいくことも知っていました。
北方水滸伝で出てくる登場人物は、出てくる人出てくる人、
本当に魅力的です。
みなが「生きる道」を身体で表現しています。
それは善い悪いという次元の話ではありません。
「どうに生きるか」
そのことに関して、みなが躍動しているのです。
その姿は実に美しい。
時に、自分の「こういう生き方をしたい」という思いを体現した登場人物に出会うことがあります。
そんな時は脳がしびれるくらいの興奮を味わうことができます。
その人物が躍動するということは、自分の「こうありたい」を表現しているということなのですから。


僕は郁保四(いくほうし)という登場人物が好きです。
林冲(りんちゅう)という豪傑の部隊に属する人なのですが、
特に剣術が優れているわけでも、戦略に優れているわけでもありません。
ただどんな時も林冲部隊の旗を持ち続けるのです。
軍隊にとっての旗とは、その部隊の象徴です。
旗が立っていることでまわりの味方兵士は「まだまだいける」と思い、
敵は「まだ崩せていない」と思う、実際的な力はなくとも、実質的に味方に利し、敵に打撃を与えるものなのです。


ある時、梁山泊(という林冲や郁保四など108人の豪傑が属する反政府組織)の棟梁・晁蓋が敵の暗殺で殺されてしまいます。
卓越した指導力とカリスマ性をもった晁蓋の死は、梁山泊に大きなダメージを与えました。
晁蓋を慕って梁山泊に加入した者も多く、場合によっては空中分解するかもしれない、という状況も想定できました。
バラバラになる可能性を秘めた組織を、再度1つにまとめたのが、
郁保四の旗でした。
梁山泊本塞、兵の訓練場、水軍の調練場など、
梁山泊に属す者全てがみることができる丘の上で、
陽が暮れるまでずっと喪を表す大きな白い旗を彼は持ち続けていました。
それは、言葉で議論したり、武力で力を見せたり、一致団結を図る決意文を書くといった、梁山泊をまとめるための実際的なことではありません。
ただ旗を持ち続けるだけなのです。
でも僕は想像します。
そんな状況で、自分がその大きな白い旗を見たらどうに思うだろう。
絶対に涙がでてくる。溢れてくる。
それは、郁保四の晁蓋への哀惜の念を込めた姿に対してのものかもしれないし、梁山泊は潰れないということを語る旗が実際にそこにある事実にかもしれないし、じっと耐え続ける郁保四に対してかもしれない。
多分その全てだ。
組織がバラバラになりそうな時必要なものは、
凡百の言葉が飛び交う議論でも、素手で熊を殺せる力でも、人に褒めた讃えられる名文でもなく、
じっと「組織は壊れていない」というメッセージを体現する身体を張った行為なのではないでしょうか。
僕はそんな状況で、郁保四のような行動を取れる人間になりたいです。
僕には実際的なものごとを上手に処理する能力はないけど、
自分が属する組織に不具が発生した時、
行動や態度でじっと寡黙にも体現できるよう心がけたいです。
そんな行動・態度を取る人に心が震えるからです。
(ちなみに、「水滸伝」には郁保四が梁山泊を救った、といった明確な記述はありません。僕の想像です)


北方水滸伝には、恐らく誰でも自分の心を奮わす登場人物に出会うことができると思います。何せ2、300人くらいの登場人物がいますからw
男性女性、年齢関係なく多くの人に読んでいただきたい作品です。



岳飛伝3巻」
史実と創作の入り交じった作品ですが、
大きな流れは史実にならざると得ません。
その史実を知る身としては、これから巻を続けていくことは、
ある種の哀しみに会いに行くことになるのだ、とちょっと悲しくなります。