‘積ん読’のススメ

まだ読んでいない“積ん読”どのくらいある?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1770819&media_id=112




積ん読’も立派な読書の一部だと思います。


読書とは何か。
人によってそれぞれでしょうし、辞書的な意味で正解はあっても、
実際の正解はないものかもしれません。
辞書には、
「本を読むこと」
とあります。(goo辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/158029/m0u/読書/)
これ以上も以下もない真っ当な正解だと思います。


ただ、僕が考える読書は、もちろん「本を読むこと」も含みますが、
それだけではありません。
読書にはもっと広い意味がくっついてきます。
僕が読書を説明するなら、
「読書とは、本屋さんで何だか気になった本を数冊購入し、それらを家の本を読む場所の近く(すぐに目が届く場所)に置いておく。中にはすぐ読む本もあり、中にはすぐに読まない本もある。すぐ読む本を読みつつも、日々すぐには読まない本の存在を感じている状態に。残りページを、ページをめくることで、右手の方のページが厚く、左手の方のページが薄くなることで体感しながら本を読み終える。そして、読み終わった本を本棚にいれ、読書日記を書く」
となります。
この一連の流れを僕は読書と考えています。
「何で本屋なのか?」「何で残りページを体感しなくてならないのか?」「何で本棚にいれなくてはならないのか?」など個々の疑問が浮かびそうですが、これは電子書籍と紙の本の違いを説明するキーワードになります。今回は‘積ん読’がメインなので、そこに突っ込みませんが、簡単にいうなら「電子書籍は‘情報’で、紙の本は‘体験’」と言えるのではないかと思っています。



積ん読’です。
冒頭に「‘積ん読’も立派な読書の一部だと思います」と書きましたが、
僕が考える読書の文中でいうと
「それらを家の本を読む場所の近く(すぐに目が届く場所)に置いておく。」
に該当します。
積ん読’も読書の欠かせない一部になっており、必然的に肯定的な意味あいのものになっています。(ちなみにこの稿でいう‘積ん読’とは、自分で購入した本を前提とします)
なぜにわざわざ読書の中に‘積ん読’を入れるのかと言えば、
単純に「有用だなあ」と思っているからです。


そもそも‘積ん読’する本、つまりは自分が購入した本は、
「自分が大小の差こそあれ興味を持った本」です。
「何か気になる」「面白そう」「ビビッときた」
何でもいいのですが、そんな感情が購入へと突き動かします。
その感情がその時点で大きいものはすぐ読む本になるでしょうし、
それが小さいものは後で読もうということになると思います。
ただ、いずれにせよ「自分が興味ある本」であることに違いはありません。


積ん読’の期間は様々で、時に年単位になるものもあります。
実際僕は常に10〜20冊くらい‘積ん読’をしていますが、
果たしていつ購入したのか定かでないものもあります。
ずっと置いてあるわけですが、それでも片付けず、そのまま置いておきます。
それはなぜかと言えば、「自分が興味ある本」であるはずなので(その興味がどのようなものだったか忘れてしまっても)、いつかその興味に再び出会うことがあるのではないか(なにせ自分が一度興味をもったものですから)、その時にすぐ手が届くところにその興味に対応する本を置いておくことで、それを逃さずに自分のものに出来るのではないか、と思うからです。
興味は一瞬にして消えることがある、というのが僕の経験則です。
その一瞬にしか存在しないものを手にするには、
それが沸き立った瞬間に対応させる物(本、映画、音楽などなど)をすぐ手の届くところに置いておくことが有効なのではないかと思うのです。
‘興味を持ったその時がその人のタイミング’だと僕は思っているので、
そのタイミングを逃さないためにも、‘積ん読’はとても有効な手段だと思います。
これが‘積ん読’のススメの一つ目の理由です。


二つ目の理由は、一つ目のそれに付随するようで、
正反対のようでもあります。
先述したように、‘積ん読’の期間は様々で、
時にいつ購入したか、何が響いて購入したのか忘れてしまう本もあります。
しかしそうなったらしめたもの、
積ん読’のススメの第二の理由が発動するチャンスです。
積ん読’の前提は、自分の興味が大小の違いこそあれそこにある、
ということだとは先に書きました。
それが時間とともに薄れてしまっても依然として自分の中にはあるものです。


人は何人かで同じ映画を観ても、自分の興味によって、
観るポイントが違います。
例えば、出演俳優に興味があれば俳優中心になりますし、
音楽に興味があれば音楽が使われる場面、
衣裳に興味があれば衣裳が際立つ場面が中心になります。
映画のみならず、生活している中で、
人は意識せずとも自分の興味があるものの情報に目を向けており、
自分でも忘れてしまったような底流にある興味が、
現実の情報に接することで表面に出てくることが時々あります。
「そういえば以前こんなことに興味あったな」と
ちょっと楽しくなった時に、
いつ購入したのかも忘れたような‘積ん読’の本の中にその興味に対応する本を見つけたときの感動といったら!
その感動の中身は、「お、ちょうどいい時に読みたい本が!」という‘積ん読’のススメの一つ目の理由にも通じるものでもありますが、
それ以上に「なんで読みたい本があるんだろ??なんかすごいな」という疑問の上に成り立つちょっと不気味さも備えた感動です。
もちろん自分で購入した本ですから、
その時に興味があったのだろうということは分かりますが、
何か今の自分の興味を予見していたのではないだろうか、
といったちょっと非論理的ではあるけど、
否定し難い感動とも言えます。
それを言葉で表すなら「過去の自分から今の自分への贈り物」といった感じです。
「過去の自分から今の自分への贈り物」を感じることでどういう効果があるのでしょうか。
それは
「時間を超えて自分に与えられた贈り物には何か特別な意味があるはず」
といったその本への特別な感情が生まれることです。
その感情は、その本への執着を、集中力を、意識を増大させます。
「ここには何かがあるはず」と、
その本の‘意味’を探すことを大きく励まし、力を与えます。
それがあるかないかの違いは侮れません。
どんな読み方をしても書いてあることも変わらないし、
文字数が増えるわけでもないし、解説が増えるわけでもない。
でも、「ここには何かがあるはず」という‘確かでない確信’をもって
本を読むことは、その本と自分を他の人では見えない糸で結ぶという
本を読むことの最も幸せな環境を作るにはなくてはならないことの一つなのです。
それを演出するのが‘積ん読’というわけです。
積ん読’のススメの二つ目の理由は、
「過去の自分から今の自分への贈り物」を感じさせる装置が‘積ん読’にはあるということです。



と、もっともらしいことを書いていますが、
本当に‘積ん読’というものがそういうものなのか僕は知りません。
上記が事実かどうかは知りませんが、
積ん読’とは上記のようなものだ、
と思い‘積ん読’を行うことで、本当に上記のような効果を得られるのではないか、と僕は思うのです。
極論してしまえば、上記が事実でなくても一向にかまいません。
フィクションであってもいいのです。
ただ、そのフィクションを信じることで得るものがある、
ということが重要なのです。
「‘積ん読’とは◯◯だ」ということはさして重要ではなく、
「‘積ん読’とは◯◯だ」を道具として使って、
例えそれ自体がフィクションであっても、その先に得るものがあるのなら、
そのフィクションを信じましょう、という言わば「有用なフィクション」として活用しましょう、ということが重要なのです。
僕はそんなふうに思います。


「‘積ん読’には、タイミングを逃さない、そして過去の自分が今の自分へ贈り物を贈る装置がある」
そんなふうに考えると、きっと‘積ん読’は有効なものになると僕は思います。