今日の一作 〜 映画『ハリーポッターと死の秘宝 PART2』


昨日観たのですが、その前にそもそもの大問題がありました。



「僕は今まで一度も「ハリーポッター」シリーズを観たことがない。」



メガネをかけた男の子が魔法使いということは知っています。
さらに、その人が現実世界でアルコール中毒にかかっていたことも
知っています。
でもその情報量では、まったく追いつかないわけです。
アルコール中毒の話は、映画の中には出てこないわけです。
もう、意味不明な箇所が多々あるわけです。
話がわからないわけです。


でも、これが面白いんですね。
話どうこうではなく(なにせわかりませんから)、
「血がたぎる」といいましょうか、とても興奮しました。
映像がすごいとか、カメラワークが巧いとかそういうことではなく、
「人が他人や他物のために、自分の命を顧みずに、自分の命をかけて闘う」
という‘物語’にクラクラしました。
それは『ロード・オブ・ザ・リングス』などでも感じた類いのものですが、
そういうのは話の内容に即すとか、そういう次元ではなく、
それ自体で観るものの血をたぎらす力があるようですね。


これを逆算すると、とても興味深いものになると思います。
つまりは
「自分は映画(でも本でもテレビでも)のある場面を観て、
 それに興奮することで、自分が興奮するポイントを知る」
ということです。


−自分は自分が興奮するポイントを最初から知らない。
他者からの提案によって、自分のそれを知る。ー


物々しく書きつつ誰の言葉でもありませんけど(笑)、
自分は他者に発見されるものなのだと思います。


自分発進で自分の好悪を知ることはできない。
他者からの様々な提案を受ける形で、これは好き、これは嫌いを知る。
そうして、自分が何者なのか、を知って行く。


こういう行程なのではないでしょうか。


「他者は常に自分より先行している」


僕はまったく話のわからない「ハリーポッター」を観て、
自分が興奮するポイントを知ったのです。
いや、確信したのです。



まあ、話もわかりたいので、DVDを早速借りるわけですが(笑)