「立ち上がる」一方で


「日本人は再び立ち上がる」
「日本は必ずや復興する」
「復興にはどれくらいの期間、費用がかかるのか」
「自粛すべきだ」
「自粛は経済活動の妨げになる」
原発で起こっていることを解決するには長期間かかる」



様々な言葉が、3月11日の地震以降語られています。
とても力強いものから、不安感で揺らぐものから、
現実に即したクールなものから、その種も様々です。
それを聞いた者に芽生える感情も様々です。
やる気が湧いてくることもあれば、イラっとすることもあれば、
落ち着くこともあるでしょう。
とにかく様々なことが起こり、語られています。
種類や、それら言葉が持つエネルギーも様々ですが、
唯一それらに共通していることがあります。
それは
「生きている者に対する言葉である」
ということです。


生きている者が立ち上がり、生きている者が復興し、生きている者が自粛し、生きている者がこれから生きる社会においての原発を心配する。


4月8日現在、今回の震災で亡くなった方の人数は12,731人です。(警視庁)
これだけの方々が亡くなっています。
僕が住む群馬県では1人のおばあちゃんが亡くなりました。88歳の方でした。
数字的には‘たった’1人です。
僕はこの方の人生にどんなことがあったのか、全く知りませんが、
思いや考えや悩みや楽しみや苦労など、
僕が自分のそれらを考えた時に感じる程のものがこの方にもあったのだろう、ということが容易に推測されます。
実際には88歳の方のそれは僕のそれの比ではないでしょう。
時間の長さもさることながら、戦争も体験されているのですから。
12,731人の方々にはそれぞれ、群馬県で亡くなったおばあちゃんが抱えていたであろうもののような、そして日々を生きる僕らが抱えているもののような、様々な唯一無二のリアルな人生があったはずです。
個別には何が亡くなった方々にあったのかは僕にはわかりませんが、
僕と同じような喜怒哀楽に彩られた人生があったということだけは、
確信をもって断言できます。


しかし、今メディアから流れてくる言葉や、日々を生きる僕らの声の中に、
12,731人の亡くなった方々に対するものを見いだす機会は皆無に等しいように僕は思います。


サッカー選手やミュージシャン、芸能人の方々は
「日本は必ず立ち上がる」と言います。
そりゃ、立ち上がるでしょ。
何人の方が亡くなろうが、残った日本人が立ち上がればいいんですから。
でも忘れてはいけないことがあるのではないでしょうか。
もはや(現世的な意味で)立ち上がることが不可能な方々が12,731人もいるということです。
このことはあまりに重い。


「日本は必ず立ち上がる」という言葉が持つパワー、
そしてそれを受けた人が抱くパワーは絶対に必要だと思います。
今は間違いなくその時期だとも思います。
だから、その言葉を発し続ける人も絶対に必要です。
それらの方々が発する言葉が、復興を早めることにもなるでしょうし、
傷ついた人々を助けることにもなるはずです。
そういう役目の方々は必要です。
ただもう一方で、亡くなった方々のことを思い、寄り添う、そして成仏に心を砕く役目を担う人も必要なんじゃないでしょうか。
それはお坊さんがすればいいのでしょうか、身内がすればいいのでしょうか、
知り合いがすればいいのでしょうか。
日本人として立ち上がる、なら、日本人として寄り添うべきではないでしょうか。
「知らない人だから関係ない」のかもしれない。
でも、亡くなった方々の喜怒哀楽に満ちたリアルな人生そのものは、
生きている僕らも理解することができます。
細部は全くわかならくとも、人生がいかに重いかはわかる。
そんな「人間」が12,731人も亡くなった事実に思いをめぐらす必要を感じてなりません。


映画『ロード・オブ・ザ・リングス』で死者はとても重要な役割を演じます。
サウロンという主人公側に対する敵との最終決戦時、
主人公側である人間は敵と戦わせるために死者を呼び戻します。
死者はこう提案します。
「それに応じれば成仏させてくれるか?」
それに対し人間は
「約束する」
と応じます。
結果死者が戦いに参加し、たくさんの敵を倒し、主人公側の勝利に貢献します。
その後、人間は死者を成仏させることで約束を果たします。
ここでは、死者を成仏させるのは人間である、という話系が採用されています。
恐らく宗教的な影響もあるのだと思います。
その内容に正誤はありません。
だって、誰とも死者と話したことがありませんから。
重要なのは、死者に対する時、どのような話系を作り出し、採用するかということです。


僕たちは、今回の震災で亡くなった方々にどのように語りかけ、
どのような話系で生きている人間の中で共有していけばよいのでしょうか。
返す返す僕にはわかりません。
多分わかる人はいません。
だから考え続けなくてはなりません。
どうやったら死者に寄り添えるのか、成仏させられるのか、成仏していただけるのか。


「復興」という明日の米櫃に直接関係のあることももちろん重要です。
喫緊の課題であり、関心毎であることは間違いありません。
その役割を担う人も必要ですが、
明日の米櫃に直接関係のない「死者に対する礼節」もまた担うべき人が必要なのではないでしょうか。
それは多分、個人で誰が担うとかではなく、
日本人として、日本人全員が共有すべきことなのかもしれません。
そんなふうに、まだ何もまとまらない状態で思います。