朝青龍関引退について


遅ばせながら。


この人の何が罪だったんでしょうか、
と考えるとなかなか面白そうです。
暴力をふるったとかふわるわなかったとか、
局所的な罪ではなく、
この人が相撲界に与えた罪の方です。


「品格がない」とか「品格を落とした」とか、
ことあるごとにこの人には‘品格’がつきまとっていたように思います。
しかし「いったい品格って何?」
という誰もがツッコミをいれたくなる問いには、
結局責め立てる方からも、責められる方からも
明確な回答はなかったのではないでしょうか。
あやふやなままです。


「あやふやなものを振りかざして、人を責め立てるなんてどうなのよ?
そんな得体の知れない‘品格’なんてものに振り回された朝青龍関が
かわいそう!わけわかんない‘品格’なんて必要ない!」


なんていう言説を人が抱き、口に出しても何の不思議もないような気がします。
むしろ当然でてくるべき言説ですが、
そんな言説は反論されることなく、黙殺されていたと僕は記憶しています。
ちゃんと答えてもいいじゃないか、と思うのですが、
内館牧子さんが象徴的でしたが、
「品格問題」を話題にする人から明確な回答はありませんでした。
それはなぜか。


僕が思うに、
彼らの誰一人として‘品格’そのものが何だかわかっていなかった、
からです。
「分からないものを答えられるわけない。だから答えない。」
至極単純なものだったのではないでしょうか。
それではなぜ彼らは自分たちすらわからない‘品格’をそれほど問題にしたのか。
それは何かしらの利益があるからに他なりません。
人から突っ込まれて答えられない問題を
わざわざ継続して発言するのですから、
よほどのことがあると考える方が自然だと思うわけです。
そのよほどのこと、つまり彼らにとっての利益とは
一体何だったのか。


結論から言ってしまえば、それは
「‘品格がある’というフィクションを守ることで得られるもの」
です。
その利益を求めて「品格問題」を何度も何度も飽きもせずに
語っていたのだと思います。


ここで重要なことは、「品格問題」を語っていた人たちは、
‘品格’自体を守ろうとしていたのではなく、
「‘品格がある’というフィクション」を守ろうとしていた、
ということです。
‘品格’は、さきほども書いたとおり、実態のないあやふやなものです。
実際には、それを問題として語っている人にすらわからないわけで、
そんなものありません。
ただ、重要なことは多くの人が「ここにあるよ」と言えば、
そこに存在してしまうもの、ということです。
実にややこしいのですが、‘品格’とはそういうものです。
実態はないけど、人々が「ここにある」と言えばここに存在するもの。
それを僕は‘フィクション’と呼ぶわけですが、
品格問題を語っていた人たちは、
この‘フィクション’を守ろうとしていたのではないでしょうか。
僕はそう思います。
ではなぜに?


相撲が特別たりえる要素は何か、
を考えると少し見えてきそうです。
他のスポーツと相撲が決定的に違うところこそ、
‘品格’にまつわるものではないでしょうか。
最高位(横綱)に上り詰めた選手が、
神の依り代になり、‘品格’を問われる存在になる。
他のスポーツで、
こんな話聞いたことがありません。
これは相撲の立派な独自性です。
スポーツそれぞれ競技上の独自性はありますが、
競技上の独自性を越えた、存在としての独自性をもつスポーツは、
僕には相撲以外に思いつきません。
生物において、独自性がその生存確率を高める最重要資質の一つだとすれば、
それはスポーツの世界にもあてはまるのではないでしょうか。
独自性がない(=代替えがきく)スポーツは、人気がなくなり、
終いにはやる人がいなくなり衰退する可能性が高いはずです。


品格問題を語っていた人たちは、
この相撲の独自性を際立たせるために、
横綱には品格があるんですよ」
という‘フィクション’を言い続けていたのです。
言い続けることで
横綱には品格があるんですよ」
に真実味を継続して与えていたのです。
「他のスポーツとは相撲は違うんですよ!独自の魅力があるんです!」
相撲が衰退することなく、長く長くみなさんに愛されるために。
それがその‘フィクション’から彼らが得る利益です。


ここで最初の考えごとに。
朝青龍が相撲界に与えた罪について。
この人の罪とは、
上でつらつら書いてきた‘フィクション’を無視したこと、
そして結果的に否定したことにあります。
この人が
横綱には品格があるんですよ」
を無視する行為を取り続けることで、
不特定多数に「品格があることを無視する」という思考を与えました。
そして、この人のもとを離れたところで
「品格があることを否定する」が生まれていても、
なんら不思議ではありません。


そして、この人の
横綱には品格があるんですよ」
を無視した具体的な行為とは、
「相撲に勝ちゃいいんでしょ。何しても勝ちゃ文句ないでしょ」
です。
実際にこの人が何かしても、次の場所で優勝して土俵上で、
「大阪めっちゃ好きや!」
みたいなことを言えば、全てが済んでたわけで、
この人にとっては真実だったのでしょう。
しかし、この人の行為は、
他のスポーツと同じ地平(=競技の勝ち負けのみで優劣を判断する)に
相撲を落とす行為そのものだったのです。
言葉を換えれば、
相撲から独自性を奪う行為そのものだったのです。
それは相撲界の発展を阻害するという
一力士の責任に負えない行為でした。


これが朝青龍の相撲界に対する罪です。
僕はそう思っています。



恐らくこの人は
横綱には品格があるんですよ」という‘フィクション’
を否定しようとはしなかったのではなかと想像します。
手加減していたわけというわけではなく、
それがどんなものか分からなかったから、
否定しようがなかったんではないでしょうか。
‘フィクション’なんていうんだからそもそもが作り事です。
周りの人間が言ってるだけで、なんのこっちゃわからない。
だから、否定ではなく、無視をしたのだと思います。
多分この人の頭の中には
「有用なフィクション」
という考え方はないんだろうと思います。


「ほんとはどうだか知らないけど、
 こうにしとけば丸く収まって利益もあるから、
 こういうことにしときましょ」


という、もしかしたら極めて日本人的なものかもしれませんが、
「有用なフィクション」について存在すら考えたこともなかったのだと思います。
目に見えるもの、手に取れるもののみ、
といったら失礼かもしれませんが、
そういうものに大きな価値を置いた人なのだと僕は想像します。
今回の件は、そういう傾向をもつ人にはいつか破綻がくる、
という予見的であり象徴的な出来事だったのかと
いささか飛躍させて思っています。


「有用なフィクション」の存在を認識できるか、どうか。
これは今後ますます重要なことになるのではないかと勝手に思っています。



全て僕の想像ですが(笑)