今日の一作 〜 映画『崖の上のポニョ』

「ここから始まる」


兄様が「この映画は宮崎駿監督の映画で一番だ」と
言ってたような、言ってないような。
いつか観ようと思ってそのままにしてたのですが、
その言葉を思い出して、または、
言ってたような気がすることを思い出したので、観てみました。


この映画は頭がかゆくなる映画でした。
(僕は興奮すると頭がかゆくなります)


この映画には、答えらしきものが一つもなかったかと思います。


「藤本って何者??」
「ポニョってどうに生まれたの??」
「藤本がポニョのお父さんってどういうこと??」
「なんでポニョは人間になれるの??」
「ポニョのおかあさんは何者??」
「ポニョのおかあさんは何で大きいの??」
「ポニョのおかあさんと藤本はどんな関係??」
「藤本は何で人間を嫌ってるの??」
「ポニョの兄弟姉妹はなんでみんなちっちゃいの??」


質問をすれば、それがそのまま「??」の数になるほど、
見事に映画中では説明されていません。


しかし、その意味不明さもこの言葉によって
はちきれんばかりの躍動感が与えられます。


「不思議なことがたくさん起こってる。
 なぜなのかは今はわからないけど、いつかわかるかもしれない」


劇中、リサ(少年宗助の母)の言葉です。



中学3年の時、音楽の先生がこんな話をしていました。
「成績を上げたければ、シャーペンじゃなく、エンピツを使いなさい」
僕を含めて誰もその言葉の意味がわからなかったようです。
理由を聞いてもよくわからないことを言っている。
多分それを実行した生徒はほとんどいなかったと思います。


最終的にその真意はわからず、卒業してすでに15年以上経ちますが、
なぜかその言葉がずっと頭の中にありました。
意味はわからないのですが、その言葉のまま頭の中にありました。


リサの言葉を聞いて、ふとそのことを思い出しました。
「成績を上げたければ、シャーペンじゃなく、エンピツを使いなさい」
その瞬間、「あっ!!」と電撃がさも走らん、
「そういうことだったのか!!!」と一つの答えが湧き出てきました。


先生が意味したことは、多分、


「ことの判断を自分の基準でするな。
 自分が意味がわかることはやる、意味がわからないことはやらないでは、
 自分以上の自分にはなれない。年端もいかない中学生なら尚更。
 自分は意味がわからないけど多分そうなんだな、
 という素直さと他人への謙虚さが学びを促進させ、
 わからないことがわかるようになる。
 結果的にそういう心構えの生徒は成績が上がる」


ということだっただろうと思います。(返す返す多分)
「成績を上げたければ、紅茶じゃなく、ビールを飲みなさい」
でも
「成績を上げたければ、マリオじゃなく、ノコノコを選びなさい」
でもよかったのだと思います、意味がわからないものであったなら。
意味がわからないものに対していかに謙虚に向き合えるか。


「成績を上げたければ、シャーペンじゃなく、エンピツを使いなさい」
そんな意味のわからない言葉に対する15年越しの回答でした。
この回答自体、さして重要ではありません。
ずっと保留されたままのものが、15年後に自分がしっくりくる回答に行き着いた、
ということがひどく重要に思われるのです。



リサの言葉を改めて。
「不思議なことがたくさん起こってる。
 なぜなのかは今はわからないけど、いつかわかるかもしれない」


この言葉を違った角度から見ると


「今この瞬間に答えを見つける必要はない。
 わからないものは「わからないもの」というシールを貼って、
 頭の中に整理しておきなさい。
 いつか何かの機会にふと、それに反応するものと出会うかもしれないから。 
 そのタイミングがあなたのタイミングなんだから、
 それが来るまで安易に‘意味’を見つけようとしないでね」


ということになるのではないかと僕は解釈します。


崖の上のポニョ』のテーマの一つは、
‘わからないことは保留すること’
ではないかと思います。


宗助がそうであるように、
この映画を観る人も「わからない」を共有します。


藤本が何者で、どこから、どうに来たのかはわかってはいけません。
ポニョのお母さんがなんで大きいのかはわかってはいけません。
ポニョがどうに生まれたかわかってはいけません。


「わからないもの」をわからないままに。
その場で‘意味’を求めず、「わからない」シールを貼ること。
この技術が安易な意味から身を守る方法であり、
自分にしっくりくる意味を獲得する方法なのだから。


こっから始めることで世界は広がるはず、、、多分。