三原じゅん子氏「八紘一宇」発言に感じること

三原じゅん子氏「八紘一宇は大切な価値観」予算委で発言


自民党三原じゅん子参院議員(比例区・党女性局長)は16日の参院予算委員会の質問で、「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」と述べた。八紘一宇は「世界を一つの家とする」という意味で、太平洋戦争中、日本の侵略を正当化するための標語として使われていた。
 三原氏は、企業の国際的な課税回避の問題を取り上げる中で「八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用することを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそが世界中に提案していくべきだと思う」と語った。


 答弁した麻生太郎財務相は「八紘一宇は戦前の歌の中でもいろいろあり、メーンストリーム(主流)の考え方の一つなんだと思う。こういった考え方をお持ちの方が、三原先生の世代におられるのに正直驚いた」と述べた。


朝日デジタル 3/16
http://www.asahi.com/articles/ASH3J6R68H3JUTFK00N.html


初見の印象は、
「なんか、なんかすげえな」
という阿呆のようなものでした。
「ハッコウイチウ?? どういう脈絡で2015年の国会で出てくるの??」
2015年のどこの引き出しをひっくり返しても出てきそうにない言葉だったので驚きました。
そんな印象でしたので、僕は三原氏の言葉について「真面目に対する必要はない」と直感しました。
「しました」というか、「してしまった」と言うべきでしょうか。
「アホらしい」という心根を感じ取っていただければ幸いです。


僕がこの報道で気になったことは、
「三原氏がなぜ「八紘一宇」というドギツイ色がついた言葉を使ったのか?」
ということです。
そして、「自民党の今について」です。


まず「八紘一宇」という言葉を確認しておいてから進めます。

<八紘一宇
「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国,東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き,八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) とあることを根拠に,田中智学が日本的な世界統一の原理として 1903年に造語したもの。


https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87-115006


三原氏は自身のホームページで「八紘一宇」を使った意図を述べています。
一応引用しておきます。

今回、私が皆さんにお伝えしたかったことは、戦前・戦中よりも、ずっとずっと昔から、日本書紀に書かれているような「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、簡単に言えば「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神です。
(中略)
今回の私の質疑がひとつのきっかけになって、忘れられようとしている日本の「建国の理念」と「天皇陛下の祈り」について、広く知って頂くとともに、皆様に考えて頂ける機会になって欲しいと思っております。


http://ameblo.jp/juncomihara/entry-12002793496.html


だそうです。
ご本人の発言意図まで持ち出しながら大変失礼ですが、なぜならそれを無視してしまうからですが、三原氏の「八紘一宇」は安倍氏への「私も安倍さんのお仲間ですよ!」という切ないラブコールです。
断言してこれまた失礼ですが、僕はそう感じました。



自民党が2009年9月〜2012年12月までの野党時代を一言で表すなら(乱暴ですが)、それは
純化
だと僕は思います。
野党におちた瞬間からその原因究明が自民党内で始まったことは想像に難くありません。
2009年当時は戦後65年ですが、その期間ほとんど全てを政権にあった党にとって、野党というのは屈辱以外何ものでもないでしょう。実際1993年8月〜94年6月の野党時代を回想した自民党議員の言葉として、「惨めだった」と何かの本で読んだ記憶があります。
そんな記憶をもつ党としてはすぐにでも与党に返り咲くことを願うのは自然のことでしょう。
その願いをただ願うだけでなく行動に移して原因究明を行ったのはさすが長年政権を担ってきた党だけのことはあります。
その原因究明は、当然ですが「なぜ野党におちたのか?」がメインになるはずです。
そこで何が話されたのか僕に分かるはずもありませんが、そこの雰囲気は分かります。(多分)
それは、
「声が大きい人が主導権をとる」
ということです。
これは自民党がどうだとかは関係なく、この手の話=なぜ失敗したのか?の話をする場では、大抵声が大きい人が主導権を持っていく、という僕の経験則です。
こういう場は基本静かなものです。なにせ失敗した本人たちが「なぜ自分たちは失敗したのか?」を検証するわけですから。のうのうと語っても、「お前が言うな」といわれるのがオチです。そのツッコミを恐れて基本的には静かな雰囲気になりがちです。
そのような雰囲気を破るのは、現実的で地道な一歩一歩の「検証」よりも、一気に何段もとばして駆け上がる「勢い」です。
誰も積極的に語りたがらない己の失敗よりも、「失敗は失敗として、今後こうやっていこう!」という、一見´未来志向´ですが実態は´検証拒否´について大声で語ることができる人間=「勢い」のある人間がそのような場所では潜在的に求められるのが世の常です。
自民党の野党時代の原因究明においても「今後こうやっていこう」と言う「勢い」のある人間がいたこと、そしてそのような人間とお仲間が主導権を握っていったのだろう、ということが想像されます。
その理由は、彼らの野党時代の´最大の成果物´ともいえる「自民党憲法草案」によります。
(ちなみに、第二の成果物は「民主党政権の検証」でしょうか。
 https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/067_01.pdf これも興味深いです)

<参考>
自民党憲法草案 https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf


この憲法草案を一言で表現するなら、僕は
「トガリすぎている」
としたいです。
憲法の体をなしていないほどに、トガッています。


憲法は、国民の権利・自由を守るために、国がやってはいけないこと(またはやるべきこと)について国民が定めた決まり(最高法規)です。」
http://www.nichibenren.or.jp/activity/human/constitution_issue/what.html


という近代的立憲主義の基本に反するような、国民にあれしろ、これしろ命令している箇所が目立つのが自民党憲法草案です。
例えば、第二十四条
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」
という不思議な条項があります。
「余計なお世話だ」の一言で終わりですが、このような憲法にそぐわない国民への命令が入っているのが自民党憲法草案です。
他、「天皇を元首に」や「国防軍創設」、「緊急事態の宣言」、「憲法改憲要件の緩和」など己の欲望がモリモリです。その欲望があまりにモリモリすぎて結果的に憲法の体をなさないトガッたものが出来上がったのでしょう。この欲望のモリモリ加減がまさに「勢い」のある人間が主導権をとった証左といえるのではないでしょうか。
この成果物をみると、「いや、それはやりすぎでしょ」という言葉が抹殺、もしくは無視されたことは明白です。その言葉が生きているなら、こんな憲法草案になるはずがない。せめて憲法の体をなす形にはするでしょう。憲法の基本的な形すら造形できないほどに「勢い」のある人間が、「それはどうかな」という言葉を無視して大声張り上げて作ってしまったと考えるのが自然です。
それは自民党自民党憲法改正推進本部長の船田元氏のこの発言からも推測できます。

 (自民党憲法改正草案の9条について)基本的にはそれで良いと思うが、「国防軍」という名前はちょっといきすぎている感じがする。私は「自衛軍」でもいまの自衛隊でも良いと思う。
 あえて言うと、この憲法草案はあくまで草案だ。アイデアのひとつだ。もちろんこのまま憲法改正の原案になることはまったくない。野党のみなさん、公明党のみなさんと協議し、衆参両院の3分の2をこえる人が賛成してくれなければ発議はできない。だからこれから大いなる妥協が始まる。どんどん私は妥協せざるを得ないと思っている。だから自民党憲法草案はほとんどズタズタになると思って結構だ。(BS―TBSの番組で)


朝日デジタル 3/1
http://www.asahi.com/articles/ASH317QGBH31UTFK00H.html


ここで彼が語っているのは、簡単にいえば「自民党憲法草案はやりすぎです」でしょう。
自分たちのやりたいことをモリモリに盛り込んだものであって現実的ではないことを彼は告白しています。
要は、「勢い」のある人間の大きな声でできたものが自民党憲法草案です、ということです。


僕はこの´最大の成果物´を作成する過程で、自民党は「純化」をしていったのだと考えています。
「トンガったことを言う人の意見が採用されること」の連続がその過程ですが、それを通して「トンガったことを言う合戦」が起こったことは自然の流れでしょう。
そのボス的存在=一番声がでかい人が安倍氏であったことは言うまでもありません。
その流れは雪だるま式に膨れ上がっていくものです。お仲間も盛り立てて、安倍氏の周囲にどんどん人が集まっていったのでしょう。
それは党内の意見が一つに集約されていくことであり、それに沿わない意見が抹殺されていくことでもあります。そのことを「純化」と表現しているわけですが、それに沿わない人たちの声はどんどん小さくなっていったことでしょう。
そして、憲法草案を作成する過程で成し遂げられた「純化」の結晶こそ安倍内閣です。
「他の色は一切お断り!」とでもいわんばかりの安倍色一色の陣営をみれば「純化政策」の見事さには拍手を送らざるを得ません。


と、ここで三原氏の話にやっと戻るわけですが、以上のことを踏まえると今回の「八紘一宇」発言の意味するところが見えてくるようです。
三原氏の「八紘一宇」発言は「純化」への参加表明である、と。
参加表明というよりも、参加希望といった方がよさそうですね。
「私は安倍さんの考えと全く同じです! 私の決意を聞いてください!」からの、「八紘一宇」発言。
どぎつければ、どぎついほどここで使う言葉は有効です。
トンがることこそ目的なのですから。「八紘一宇」というどぎつい色のついた言葉を使った理由はそれでしょう。いや、そんな理由「しか」ないでしょう。
なんか裾にすがりつくような切なさを感じざるを得ません。
三原氏の発言をこのように僕は考えていますので、別に「戦争を賞賛している」とか、「右傾化している」とかなどとは全く思いません。
三原氏に思想はありません。ただのおべっかなのですから。
そんなこんなで先述したように、発言自体については「アホらしい」で終わりです。


この件から最も注意を向けなくてはならないことは、三原氏の「八紘一宇」という言葉でも、ましては彼女の思想でもありません。(そんなものありません)
自民党議員が決死のおべっかを使う」ことが意味をなすことになっている自民党の今の空気についてです。
安倍氏の考えに賛意を示し、絶賛することが党内で優位な地位を獲得する」
という自民党の今を今回の件から僕は感じました。
それはいまだに「純化政策」が行われていることですし、三原氏の「八紘一宇」という言葉を使うという一か八かぶりをみると、いよいよその政策が最終段階になってきているのではないか、とも感じます。
「八紘一宇」が出てしまったあとは、もう「鬼畜米英」しかないでしょう(笑)。
ただ麻生氏の発言に対する回答をみると、持て余している感がありますので、次は決定的な「暴走」としてあらわれると思います。(三原氏も党内で「暴走」判定されていると思われますが)
それが政権にダメージを与えることになる可能性は極めて高いと思います。
そういうところから崩れていくものです。



以上、今回の三原発言から感じるところです。
最後に二つ付け加えておきます。
三原氏は、例により(と言っていいでしょう)
「私は、この言葉が、そのような使い方をされたことをふまえ、この言葉の本当の意味を広く皆さんにお伝えしたいと考えました。」http://ameblo.jp/juncomihara/entry-12002793496.html
とホームページでいっています。
これは「真意を伝えたい」系ですね。
こういうのをみるたびに「???」です。真意があるのは結構。立派なことです。
しかし、そんな真意とやらは他の人にとってはどうでもいいのです。
「八紘一宇」にどれだけ立派な意味があったとしても、戦争遂行のスローガンに使われたという事実は消しようもないし、その事実に基づく意味「しか」存在しないのです、現実には。
とりわけ、中国、韓国、北朝鮮、東南アジア、アメリカ、イギリス、オランダなど、「八紘一宇」に踊ろされた軍隊に人を殺され、家を焼かれた国の人々にとってはなおさらです。
真意なんかまったく意味をなさない。
そのことになぜ思いを向けないのか。僕には本当に不思議です。


もう一つは、言葉の意味にあえて乗りますが、
「今回、私が皆さんにお伝えしたかったことは、戦前・戦中よりも、ずっとずっと昔から、日本書紀に書かれているような「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、簡単に言えば「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神です。」
http://ameblo.jp/juncomihara/entry-12002793496.html
という三原氏の言葉に対して、他の国の方々の声を代弁する形で「余計なお世話だ」と言っておきます。