「イスラム国」人質事件のニュース番組について


 「イスラム国」が湯川氏、後藤氏の殺害脅迫動画を公開したのが、1月20日でした。
そこから連日ニュース番組のトップはこの事件に関してのものがほとんどだったと思います。
僕は普段テレビのニュース番組をそれほど観ないのですが、この事件に関してのものは度々観ました。
観られるときは各局の夕方のニュースを観、夜のニュース番組も観るようにしていました。
普段は様々なスタンスが各ニュース番組にはありますが、この事件に関してはそれほど違いがないという印象でした。(元経産省官僚・古賀茂明氏が出演した「報道ステーション」は部分的に特徴がありましたが)
その最たることは、専門家に話を聴くという形でした。
この形はもっともなものだと思います。どんな事に関しても、専門家がもっとも詳しい知識をもっていることは疑いありません。専門家に疑問を聴く、解説してもらう、という形が、知識がそれほどない視聴者にとって大変役立つものであることもまた疑いようがありません。僕にとってもそれは有効なものでした。


 しかし、今回の事件は極めて特別なものでした。それは、誰も詳細を知らない、ということにおいてです。つまり、専門家であっても「イスラム国」の内部も分からなければ、思惑も分からなければ、湯川氏、後藤氏の状況も分からない。何も分からなかったわけです。専門家といっても、中東政治の専門家、テロの専門家、イスラム教の専門家などで、ずばり「イスラム国」の専門家という人は誰ひとりとして出演していませんでした。そんな人現状いないからです。いわば、「イスラム国」周辺に詳しい専門家、が「イスラム国」について語っていたわけです。「イスラム国」の専門家自体がいないということも、よってニュース番組が周辺専門家に解説などをしてもらうことは、それはそれで仕方のないことだと思います。「イスラム国」の専門家がいないことは当然テレビ局の責任であるはずもありませんし、いないならいないでそれに近いことを知っている専門家を探し、可能な限り「イスラム国」に近づこうとする必死の意思が、周辺専門家を招くということでしょうから、その努力は買ってやらねばと思います。


 しかしです、しかしそのような周辺専門家に「今後どのようになりますか?」「現在の後藤さんはどのような状況だと思いますか?」「現在イスラム国の内部はどのようになっていますか?」など、´予想´でしか答えられないようなことを聴いて番組を構成する方法はいかがなものか? と疑問に感じました。その´予想´ぶりを表すように、専門家によって見解はまったく違うものが多々ありました。
例えば、サウジアラビアのアブドラ国王が死去したことによる事件への影響についての見解や、要求を身代金2億ドルからサジダ・リシャウィ死刑囚に変更した意図などは様々な意見がありました。(ちなみにこのことについて、´国会王子´とTBSラジオ界隈で称されている武田一顯さんというTBSの国会担当記者が、「中東でアブドラ国王の死去の報道が最重要トピックになるので、「イスラム国」は少し間を置くため動きはないでしょう、と専門家が言っていましたが、その間に湯川さんが殺害されました。全く外れていたわけですが、そのようなことを言った専門家の責任はどうなるのでしょう?」といったことをラジオで発言していましたが、そんなことを言ったらあなたの政局予想はどうなるんだ? と思ってしまいました。「正解」しか言ってはいけないのなら、その番組はだんまりするしかないでしょう)


 それ自体、誰も詳細が分からない状況において仕方のないことです。この世に正解が分かる人間などいないようなことなのですから。(「イスラム国」の中枢を除いて)それが分かっていながら、「正解」を求める姿勢をどのニュース番組もとり続けたことに僕は疑問を感じるのです。それは、プロ野球中継で実況アナウウンサーが解説者に、「今ピッチャーはどのようなことを考えていますか?」とか、芸能人の恋愛沙汰の芸能ニュースで芸能レポーターに、「今後ふたりはどうなりますでしょうか?」といったものと本質的に何ら変わりません。ただ対象が違うだけで。


 「ある話の中心がある。それに詳しい人を呼ぶ。話を聴く」というフォーマットに当てはめる形を基本においてどのニュース番組も作られていました。ニュース番組は様々なニュースを伝えなくてはならなく、一つに多くの時間を費やせないという事情もあるでしょうし、視聴率のことも考慮しなくてはならない事情もあるでしょう。だから、これまでのフォーマットに頼らざるを得ないという事情もあるのでしょう。しかし、今回の事件はそのフォーマットが有効だったのでしょうか? 改めて言いますが、今回の事件に関して詳細を知る人などいません。専門家の人たちも例外ではありません。その状況において、「正解」を教えてください、というこれまでのフォーマットは本当に有効だったのか?


 ニュース番組はそれぞれの番組で目指すところも違うでしょうし、局によって意味付も違うものかもしれません。しかし、どのニュース番組も「視聴者(国民)に情報を提供し、考える材料を提供する。またニュースの事柄自体がどのような意味をもつものかを伝える」という最低限の役割は共通しているものをもっていると僕は信じています。それは、ニュース番組の´使命´といってもいい。それを考えるなら今回の事件において、従来のフォーマットはその使命を果たすのに十分だったのだろうか? と考えてしまいます。僕は不十分であったのではないか、と思うのです。もちろんそれを果たした部分も多々ありますが、「誰も分からないことについて正解を求める姿勢」を堅持した時点で掛け違いが起こっていたのだと思います。今回の事件においてニュース番組が伝えることの中心は、「誰も分からないことに対する取り扱い方」であるべきだったのではないでしょうか。そこに真摯に取り組むことこそジャーナリズム=使命と言われるものではないでしょうか。そこがこの間のニュース番組からは感じることができませんでした。


 時間の制約や視聴者や視聴率への配慮、各ニュース番組の方針などの事情はあることでしょう。それは十分理解できますが、それらの事情にのみこだわるなら、ニュース番組が最低限もつべき使命を果たすことができなくなってしまうと僕は思います。事件、事故ごとの伝え方があるはずです。多くは上記のフォーマットで事足りるのかもしれません。しかし今回の人質事件はそのうちにはなかったと僕は思います。極めて例外的な事件だった。だからこそ、この事件にあった形を考えてほしかった。それに努力することこそ、ニュース番組が使命を果たす力をつけることなのだし。


 専門家に話を聴くことが悪いわけではありません。それはとても重要なことです。ただ「専門家に聴く」スタンスをしっかり考えること。その根本を考えることなく無意識的に従来のやり方に則ることが、ニュース番組の使命を果たす力を衰えさせるのではないか、ということが今回の人質事件のニュース番組を観ながら感じたことでした。