気になるニュース 2015/1/14


気になるニュース3本をピックアップします。
今年になってこのスタイルを始めましたが、なかなか面白いですね。
自分が何に気になるのか、それに対してどのような方向から考えるのか、
そして何を考え、言語化するのか、
自分に対する確認になるのが興味深いところです。

新型「国際放送」で正しく日本の立場発信 慰安婦など歴史問題…「攻めの情報発信」 NHKと別、自民が創設検討へ


自民党は14日、国際情報検討委員会(原田義昭委員長)などの合同会議を党本部で開き、慰安婦問題や南京事件などで史実と異なる情報が海外で広まっている現状を踏まえ、日本の立場を正確に発信する新型「国際放送」の創設を検討する方針を確認した。中国や韓国などの情報戦略を分析、在外公館による情報発信の拡充についても議論し、今年の通常国会会期内に結論を出すことにしている。
(記事抜粋)


産経新聞 1/14
http://www.sankei.com/politics/news/150114/plt1501140038-n1.html


現在海外に放送されている「NHKワールドTV」とは異なる国際放送を創設したい、ということを国際情報検討委員会が確認した、というニュースです。
まず前提を確認します。
国際情報検討委員会とは、自民党の組織であって、政府のものでないようです。
この組織、調べてみたら朝日新聞従軍慰安婦誤報問題の際に『決議』を出したところでした。



『決議』内容
朝日新聞慰安婦問題などにつき虚偽の報道であったことを認めた。朝日新聞が発信してきた虚偽の記事が国際的な情報メディアの根拠となり、国際社会が我が国歴史の認識を歪曲し、結果として我が国の評価、国益を著しく毀損した。朝日新聞の謝罪は国民の名誉と国益の回復には程遠いが、いわゆる慰安婦の「強制連行」の事実は否定され、性的虐待も否定されたので、世界各地で建設の続く慰安婦像の根拠も全く失われた。
 わが国は国際社会で一貫して平和と民主主義を希求し実践している。かかる誤った国際認識には断固として正していかなければならない。
 国連を始め全ての外交の場、また官民挙げての国際交流の中で、国としての正しい主張を訴え続けることが必要である。しかもその主張は国際社会に正確かつ十分に届かなければ全く意味がない。
 わが国は国際関係においても情報の公開や広報の充実強化に努めているが、国の主権や国益を守り抜くためには、単なる「中立」や「防御」の姿勢を改め、より積極的に情報発信を行う必要がある。国としての情報戦略を立てつつ、一方で諸外国の情報、動きを敏感に察知し国としての対応を機敏に行うことが必要である。
 国としてそのための積極的政策をしっかりと進めていかなければならない。   以上
平成26年9月19日
http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/09/post-300.html



といったものでした。
これを読むとどんなことを志向している組織化がよくわかると思います。
それを踏まえてこのニュースを考えたいと思います。
まずニュース内容から、彼らの言葉を抜き取ります。


「どういう形で相手国に情報が伝わるかにも目配りしながら、正しいことをきちんと発信していくことが大事だ」
「攻めの情報発信」
「従来の枠内では報道の自由など基本的な制約が多いため、今日の事態に十分対応できない」


これらからこの組織が以下のような認識をしていることが分かると思います。


「現在は正しいことが発信できていない」
「現在はまもりの情報発信だ」
報道の自由は制約であり、そのため今日の事態に十分に対応できない」
(迅速に対応できないという意味か?)


3つ目はかなり迂闊な印象を受けます。
「思っていることをそのまま言ってしまうんだ」
という欲望を生の状態で表現することに驚きを禁じえません。
僕はこのような表現方法をとる人には警戒しています。
正直怖い。切れ味がありすぎます。
そしてそのような表現方法をとる人の判断は胡散臭い、という感想を持っています。
あまりに欲望という思考以前の第一感情がまとわりついているような気がして。
事態の予測や論理などを軽視する傾向をそこから感じます。
そのような人が事を成功裡に進めることができるのか、僕には疑問に思えます。
報道の自由は制約である」という認識自体にも驚きますが、
それ以前の表現のマナーに知性不足を感じます。
知性が不足した人の判断がどこまで考えられたものなのか? 疑問に感じます。


アメリカに「VOA(Voice Of America)」という、アメリカ政府が運営する国際放送があるようで、
それを目指したものなのかもしれません。
ちなみに、現在日本には北朝鮮に向けた国営放送「ふるさとの風」という短波放送があります。
拉致被害者に向けた、拉致問題についての日本政府の主張を放送しているそうです。


特集ワイド:出版不況や「コンビニ化」のなか−−がんばれ!僕らの「本屋」さん


書店でじっくり本を選ぶのが至上の喜び−−。そんな本好きの人たちから「最近、本屋がつまらない」との声を聞く。本がぎっしりある大型店でもそうらしい。なぜだろう。そして、どうにかならないものか。本屋を歩いて考えてみた。
(記事抜粋)


毎日新聞 1/14
http://mainichi.jp/shimen/news/20150114dde012040004000c.html


毎日新聞の本屋さんについての記事です。
僕は極力本屋さんで本を買うようにしています。自分が「ここはなくなってほしくない」と思う本屋さんで。
応援するような感覚です。なくなったら自分が困るので応援するのですが。
嫌中・嫌韓本、その裏返しの日本賞賛本が大々的にアピールされているような本屋さんでは買いません(笑)。


例えば、本屋さんで5冊本を買うとしたら、4冊はその場で出会った本というのが多いです。
出会った瞬間、その本は特別なものになります。
自分の意図ではないものが自分の手元にやってくるというのは、ある意味神秘的なことです。
「なんでこの本なんだろ?」という疑問は、ほどなく「この本は特別だ」という感動に達します。
そんな感動に彩られた特別な本を読むとき、「自分の本を選ぶ眼力に瑕をつけたくない」というさもしい思いから、一生懸命読みます。そしてそこから何かを得ようとします。
そんな読み方をしていると、実際何か得ることができることが多いです。
「何か得なければ」と思う気持ちがあるとないとではまったく違います。
その気持ちをいかに持てるか? が実はかなり重要なことだと思っています。
それを持てるような本との出会い方をしたほうがよい。
それを逆算すると、本屋さんで本を買うのがよい、というのが僕が思うことです。
Amazonなどネットではなかなか本と出会うことができない、というのがこれまでの僕の経験即です。
そんなこんなで本屋さんがなくなっては困るのです。


週刊紙:あっという間に完売 表紙に預言者姿の最新号


表現の自由」を根拠に風刺画を正当とする同紙に対し、偶像崇拝がタブーとされるイスラム教徒への配慮が足りないとの指摘もある中、売店などに並んだ最新号は、あっという間に売り切れた。同紙はさらに200万部の増刷を決めた。
(中略)

同紙のジェラール・ビヤール新編集長は13日の記者会見で「世界中の人々に読んで笑ってもらいたい」と語った。表紙を描いた風刺画家のルス氏は会見で「表現の自由は、条件や制限がついたものではない」と訴えた。今回もムハンマドを題材としたことについて「また描いたことは申し訳ないが、私たちの描いたムハンマドは涙を流す一人の人物だ」と説明した。
(記事抜粋)

毎日新聞 1/14
http://mainichi.jp/select/news/20150115k0000m030096000c.html


連日報道されているフランス・シャルリーエブド襲撃事件に関してのニュースです。
ここ数日、このことを毎日考えているのですが、なかなか整理がつきません。
どのような観点が必要なのか。有効なのか。
途中経過のメモ程度の考えです。


どんな報道をみても、前提とすることは「テロは絶対に許せない」ということは共通しています。
これは誰であっても同意するところだろうと思います。
分岐点となる部分は、「表現の自由は絶対守るべきもの」と、「表現の自由にも制限があるべき」「やりすぎ」という意見においてだと思います。


日本においては、僕の感覚では「表現の自由は大事だけどやりすぎ」といった感想が多いのかな、と感じています。


当のフランスでは、引用部分にもある、
表現の自由は、条件や制限がついたものではない」
といった考えが主流なのではないかと思います。
報道で解説されていたフランスにおける表現の自由の獲得状況や、370万人もの人のデモがそのように思わせます。


アメリカでは、俳優のジョージ・クルーニーがグールデングラブ賞の受賞スピーチで、「私はシャルリー」と言う一方、オバマ政権は高官をフランスでの「連帯」デモに派遣しませんでした。(その後、ケリー国務長官を派遣することになったそうです)
また、ニューヨークタイムズは社説で「私はシャルリー・エブドではない」という記事を掲載しました。(「私はシャルリー・エブドではない」要点要約 http://blogos.com/article/103382/
様々な見方があるそうです。
アメリカ在住のジャーナリスト冷泉彰彦さんの記事が参考になります。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2015/01/post-708.php


イギリスでは、「連帯」デモにキャメロン首相が参加する一方、ラジオで聴いたまた聞きなのですが、コラムニストの小田嶋隆さんがBBCでの反応を紹介する中で、女性が「テロは絶対に許せないけど、私はシャルリーではない。あれはレイシストだ」といったことを話していたと言っていました。


まあ、世界中で様々ですね。
僕は「表現の自由」についての認識が浅いという自覚があるのですが、今回の件について自分なりの考えを書いてみたいと思います。
僕は「表現の自由」は絶対に確保されるべきものだと思います。引用したフランス人の
表現の自由は、条件や制限がついたものではない」
という考えに同意します。
しかし、それを世に出すか、出さないかの判断をする良識は問われるべきではないか、と続けたいです。
ここでの良識とは、自分の欲望を叶える際に、その影響がありそうな人のことを考慮するその気持ち、と定義しておきます。
表現の自由」はある、しかしその表現を世に出さない。
という形もあるべきだと思います。
ややこしいのですが、この形、日本人には馴染み深いものだと思います。
憲法9条における集団的自衛権についての考え方に似ています。
「国としては集団的自衛権の権利をもっているが、憲法9条によりそれを行使しない」
という形です。
この形で「表現の自由」を考えることはできないものか。


良識の中で、世の中に出していいものか、よくないものかの判断をする方が、
表現の自由」そのものの中で線引きするより、よっぽど判断しやすいはずです。
なぜなら、「表現の自由」は絶対なのだから、その中で線引きすることは不可能だからです。
表現の自由」の中で限度をもうけるとなると、その限度の線引きは力関係によって変動します。
時によっては、「表現の自由」が大幅に制限されてしまう可能性もあります。
それは絶対に避けたい。「表現の自由」は絶対に確保されるべきです。
ただその中で、「それをいっちゃあおしまいよ」のものもあるよ、と。
アメリカ・ワシントンポストの考えに似ているかもしれません。
この新聞は、「表現の自由は絶対的に認めるが、宗教に関するものはその内容によって判断する」という方針があるようです。


イスラム教徒にとってムハンマドが絶対であるように、民主主義国家にとって「表現の自由」は絶対です。
絶対と絶対が正面からぶつかれば当然衝突となります。
そこでどちらが良い、悪いではさらなる衝突をうむ可能性が高くなるのは容易に想像できます。
お互いに絶対があるなら、その両方は認められるべきものだと思います。
そうせざるを得ない。イデオロギーではなく、現実的な観点から僕はそう考えます。
それを前提にすると、今回のテロは「表現の自由」に対してのものでなく、シャルリーエブドの社員に対してのものではないか?と思ってしまいます。
表現の自由」という普遍性に対してではなく、良識不足な会社・社員という属人的なものに対する攻撃。
僕がどう思おうが、フランスが「表現の自由を攻撃された」、テロ実行犯・黒幕が「表現の自由を攻撃した」といえばそれまでですが、絶対 vs 絶対には破滅しかない、ということはしっかり認識すべきものだと思うのです。