気になるニュース 2015/1/11


気になる2本のニュースをピックアップします。

「日本人の家計貯蓄が初マイナス」の衝撃


問題の経済指標は「平成25年度国民経済計算確報」と題されたもの。国民1人当たりの名目GDP(国内総生産)や名目GNI(国民総所得)、国民所得、国際比較などの数字が列挙されている資料だが、目をむいたのは家計貯蓄の項目だ。家計貯蓄とは、家計の可処分所得や年金の受け取りから家計の消費支出を引いたもの。これが2013年はマイナス3.7兆円になり、家計貯蓄率もマイナス1.3%になった。家計所得がマイナスになるなんて、この統計がスタートした1955年以来、初めてのことだ。それ以前をさかのぼっても、マイナスは1949年に1度あっただけだという。戦争中でさえ、家計所得はプラスだったのに、それがマイナスに転じた理由は明らかだ。


その原因も資料の数字に出ています。報酬が伸びないのに、消費が増えたんです。つまり、貯蓄を取り崩して生活するしかなくなった。だから、家計貯蓄はマイナスになったんです。実際、家計の可処分所得は1997年は308兆円だったのに2013年は287兆円。消費支出は97年は283兆円でしたが、13年は289兆円です。しかも、これは13年のことなんです。その後、物価はさらに上がっていて、実質賃金は減り続けている。今後も円安の加速で、この傾向は拡大する。


ちなみに日本の貯蓄率は3.2%で先進国で最低レベル。フランスは15.2%、ドイツは11.4%だ。日本も92年は14.7%でトップレベルだったのに、凋落の一途である。日本が貯蓄大国というのは過去の話になってしまった。
(記事抜粋)


日刊ゲンダイ 1/8
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156243/2


家計貯蓄という指標を知らなかったのですが、意味は、
「家計貯蓄とは、家計の可処分所得や年金の受け取りから家計の消費支出を引いたもの。」
ということのようです。
要は、「使えるお金ー消費支出」といった感じでしょうか。
それがマイナスだと、赤字ということになるのだと思います。(間違えていたらご指摘お願いします)
その指標が、2013年はマイナスになったと。
統計を始めた1955年以降で初めて、戦時中ですらマイナスになったことがない(1949年に一度あり)数字が2013年はマイナスだった、というのは、それだけでただならぬ印象を受けます。
その理由は記事では、
「報酬が伸びないのに、消費が増えたんです。つまり、貯蓄を取り崩して生活するしかなくなった。だから、家計貯蓄はマイナスになったんです。」
とあります。
僕にはそれが正しいのか検証する知識がありませんが、そこまで踏み込まずとも家計貯蓄がマイナスという事実は重いものと思います。
株価が上がっている、円安で輸出主体企業は潤っている、ベア実現、有効求人倍率が上がっているなど、安倍政権の経済政策の「成果」を強調する人もいますし、期待する人もいます。
日々の報道をみていると、確かにそれらの数字は上がっています。
しかし、実態をみると貯金を切り崩して生活している人が数字にあらわれるほどに存在しているわけです。
記事には2014年の数字はもっとひどくなるのではないか、とあります。
2013年を境にマイナスに転じていくのか、それとも一過性のものなのか、僕にはよくわかりませんが、
もしかしたら日本の分岐点になるのではないかと思いました。

産経さんだって人のこと言えないでしょ?


朝日の人と話していて、なるほどと思ったのは、今回の場合でいうと、編集部門は僕のコラムを掲載しようとしていたわけです。でも上層部、第三者委員会でいうところだと当時の社長ですよね。経営陣から載せるなと言われて、現場は抵抗したけど最終的に屈服しちゃったわけです。その「屈辱感」を現場の誰しもが持っている。こういうことが二度とあってはいけないという反省みたいなもの。実はそれが「編集権の独立」を担保するのではないかと言っている人がいて、なるほどなと思いましたね。


逆に言えば、今後もし経営者が編集に介入しようとしたら、「第三者を呼ぶんだよ」「オープンにするんだ」という仕組みが朝日にはできたわけですから。これは経営者がうっかり編集に介入しようとすれば、オープンになってしまうと思ったら、それだけで歯止めになる。つまり、会社の体質うんぬんではなくて、歯止めをつけるとか、ブレーキをかける仕組みを朝日はつくったんですよね。


むろん、代が変わっても、その精神や仕組みが継承されるかどうかという懸念はあるわけですけど。あなた方も新聞記者である以上、自分が書いた記事について正当な理由もなく、上層部から「これはやめろ」と言われたら許せないはずです。屈辱ですよね。やっぱりそれに屈してしまったということは記者人生において、ものすごい汚点だと思うんです。朝日の人たちにとってみれば、今回のことにかかわった一人ひとりの記者人生においての汚点でもある。これからもトラウマになるかもしれませんけど、その反省から二度とそんな失敗はしないっていうことを思うことが大事なんじゃないかな。


(記事抜粋)


iRONNA
http://ironna.jp/article/828


池上彰さん本人が語る朝日新聞コラム不掲載問題についての記事です。
まず「iRONNA」というこの記事の掲載元のサイトですが、僕はこの記事を読むまで知りませんでした。
記事中でやたらと「産経新聞」の名が出てくるなあ、と思っていたら(記事のタイトルからいって「産経さんだって人のこと言えないでしょ?」です)、サイト自体が産経新聞系のものでした。
(iRONNAとは? http://ironna.jp/about
どうりで他の記事がそれっぽい(笑)。
その中で池上さんに「朝日新聞でのコラム不掲載についてどうなんですか?」と聞いているわけです。
この姿勢は誠実な印象を受けます。張本人の池上さんに話を聞くというのは朝日新聞誤報関連について報道するのに当然のことですが、とかく「お仲間」に語らせたがるメディアの性質において、池上さんという「中立的」な人にしっかり語らせていることにその印象を受けます。(かなり長いテキスト!)


その中でも僕が印象に残った箇所は引用部分です。
「屈辱感」という言葉で記者などの編集部門の独立性に池上さんが期待をしている箇所です。
これを僕の言葉で書き換えると、
「編集の独立を保つのは記者の職人性だ」となります。
職人を定義するなら、
「己の仕事・作品に誇りをもち、殊それらへの批判については徹底的に反論をする人」
としたいです。
会社の組織の中にいるのでそのルールに沿わなければならない、上司の命令は聞かなくてはならないなど、会社に所属すれば当然自分の意思だけでどうにもならないことはあります。
新聞記者も当然同様ですが、それでもかなりの倍率をクリアした人のみがなれる新聞記者には、己に対する自信やプライドが少なからずあるでしょう。
組織は組織、上司は上司とは分かっていても、自分の書いた記事や取材に自信をもち、譲れないという意識は、大小の違いはあれ恐らく全ての新聞記者がもっているのではないかと想像します。
つまりは、新聞記者とは「職人性」が前提として内蔵されているものなのではないか、と思うのです。
池上さんは引用部分で、記者がもつ「屈辱感」に期待しています。
その経営陣から口出しされたことに対するものです。「オレらの領域に入ってきた」ということに対するものです。
「屈辱感」と「職人性」は同線上にあるものです。職人であるから、屈辱を感じるわけです。
自分の仕事や作品に誇りをもっていなければ、他から口をだされても屈辱を感じることはありません。
「はいはい、変更しますよ」で終わります。しかし、朝日新聞の記者の中には「屈辱感」をもつ人がいた。
池上さんはそこに朝日新聞の今後を期待しています。


そして、僕もそこに期待します。ただ僕は朝日新聞についてだけではありません。
世の中の生きる人々に対してです。
職人とは得てして合理的なものではありません。こだわりや判断基準など、その人独自のものをもっており、数字や理屈で推し量れない部分が少なからずあります。
合理的は、「世の中の一般的な基準」と言い換えてもいいと思います。
自分で良いと思ったなら、それに従わないことも平気で選択する人が職人です。
「世の中の一般的な基準」とは、例えば報酬や待遇、社会的地位などは高ければ高いほど良い、といったものを含みます。
職人は時にそれらを判断基準としません。「自分の仕事の邪魔になる」「自分の仕事に対して敬意を示さない」など、自分の仕事にとって良くない場合は、そんな判断基準平気で捨ててしまいます。
あくまで自分の仕事が第一です。それが職人というものです。
と、断定していますが、僕はそんな「職人」に会ったことはありません。小説や映画などに出てくる「職人」をイメージして書きました。
しかし、実際に上記のような「職人」がいるか、いないかは別として、僕たちは「職人的気質」というものの存在を小説や映画、漫画などから知っています。
「職人」と聞けば、上記のような「職人」像を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。
僕たちの生きる世の中には、「職人的気質」がしっかり存在しています。


僕は現在の世の中で、多くの人が損得だけに生きることに対する嫌悪感を多かれ少なかれ、意識的、無意識的に持っているように感じています。
それに対して、世の中自体は損得で判断することを要請・強要するシステムになってきているように僕には感じられます。
その対立は、比較的低温ながら確実に存在している気がします。
損得判断に含みをもちながらもシステムの中に埋没することを選択する人もいるでしょうし、無意識的にシステムに飲まれて行く人もいるでしょう。
ただ当然、強い意思で拒否する人もいるでしょうし、無意識的に拒否する人もいるでしょう。
僕は損得だけで判断する世の中は卑しいものだと思います。
また、そんな僕の個人的感情なぞ無視しても、損得世の中は格差を必然のものとしますし、不正ははびこるし、なんか表面的にはよく分からないことで物事がきまったり、効率一辺倒で真に素晴らしい芸術も生まれにくい状況を作ります。
とても生きにくい世の中になる、と僕は思います。
そんな世の中で僕は生きたくありません。損得世の中を否定する人が、一定の割合でしっかり存在する世の中で生きたいです。
そのために、僕たちの先祖が作り上げ、今に残る「職人的気質」に目を向けてほしいと思うのです。
損得を第一の判断基準としない「職人的気質」。
当然、職人になれといっているわけではありません。どんな職業であっても、いや、職業という狭い枠ではなく、生き方において、「職人的気質」を大切にする人が多ければ多いほど、僕にとって生きやすい世の中になるのではないかと思います。そして、恐らくそのような世の中が良いなあと思う人は僕だけではないように思います。
「職人的気質」は僕たちの財産です。
それが僕にとって期待であり、希望なのです。


最後に民俗学者宮本常一さんがみた「職人的気質」を引用します。
「金がほしうてやる仕事だが決していい仕事ではない。ことに冬など川の中などでやる仕事は、泣くにも泣けぬつらいことがある。子供には石工にしたくはない。しかし、自分は生涯それでくらしたい。田舎をあるいていて何でもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。こんなところにこの石垣をついた石工は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろうと思って見る。村の人以外には見てくれる人もいないのに・・・・・」と。
「―(略)― 結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ」
(『宮本常一著作集44』未来社刊)