気になるニュース 2015/1/8


3本の気になるニュースをピックアップします。


過ち繰り返さぬために 「火垂るの墓」高畑監督に聞く


いたいけなきょうだいの死から戦争の悲惨さを描いた不朽のアニメ映画「火垂るの墓」。監督を務めた高畑勲さん(79)は語る。「あれは反戦映画ではない」。
(中略)
−原爆をテーマにした「はだしのゲン」もそうですが、日本では平和教育にアニメが用いられた。もちろん大きな意義があったが、こうした作品が反戦につながり得るかというと、私は懐疑的です。攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。
(記事抜粋)


神奈川新聞 2015/1/1
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150101-00119041-kana-l14


【参考】BLOGOS 志村建世さん 2015/1/7
http://blogos.com/article/102998/


アニメ映画監督・高畑勲さんのインタビューが神奈川新聞の元日号に掲載されたようです。
監督の作品『火垂るの墓』についてがその内容になります。
僕が気になったのは、上記の引用部分です。
ちょっと高畑さんがおっしゃっていることと違うと思うのですが、
今後において戦争の悲惨さを伝えることが有効な反戦活動に成りうるのか、ということに僕も懐疑的に考えています。
その主な理由は、実際に戦争を体験し悲惨な状況を体験し、記憶している方々が減っていき、いずれいなくなるから、です。
例えそのような方々がいなくなったとしても戦争が惨禍をもたらすことに変わりありません。
悲惨なものです。
しかし、それを体験したことのある人がいない状況の中で、それを訴えることが有効なのか?というとなかなか厳しいのではないかと僕は想像しています。
今後有効な反戦活動は、悲惨さを訴えることよりも、戦争そのものの悪を訴えることだと思います。
というか、それしかないのではないでしょうか。
そのための方法の一つとして、戦争の過酷な悲惨さをまだ体験していない時代に主張された反戦論を勉強することです。
日本でいえば、幸徳秋水帝国主義』、永井荷風『断腸亭日常』、清沢洌『暗黒日記』、長谷川如是閑長谷川如是閑評論集』、石橋湛山石橋湛山評論集』などがその類いにあたるのではないでしょうか。
それほど時間は残されていないように思います。
日本における新たな反戦論の準備が必要だと思います。

爆笑問題、政治家ネタが没に NHKのお笑い番組


番組の中で田中裕二さんは「全部ダメって言うんだよな。あれは腹立ったな」と話した。太田光さんは「プロデューサーの人にもよるんだけど、自粛なんですよ。これは誤解してもらいたくないんですけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。問題を避けるための」と話し、田中さんは「色濃くなってるのは肌で感じるね」と応じた。
(記事抜粋)


朝日デジタル 2015/1/7
http://www.asahi.com/articles/ASH175CJNH17UCVL01H.html?iref=com_rnavi_srank


まず最初に。
実際にこのラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』を聞いていましたが、冒頭のおしゃべりの時間に他の話題と温度差もなく話されていた話題でした。熱心にNHK批判をする、メディアに物申すといったものではありませんでした。
爆笑問題カーボーイ】1/6
https://www.youtube.com/watch?v=BW1jctLXEvY
冒頭20分くらい聴けば分かると思います。


さて次にこのニュースで気になったところ。
やはり「自粛」ですね。
「政治家ネタはやめてください」とNHK側にいわれるとき、二つの可能性があります。
一つは、政治家だか政権だかから「そういうのはやめなさい」と強制されるか、
もう一つは、「政治ネタはやばいな」と自粛するか、です。
今回は、爆笑問題・太田さんがいっているように、「自粛」だったのだと思います。
(実際はそれも太田さん自身への強制がなかったというだけで、NHKにはあったのかもしれませんが)
「強制」と「自粛」どちらが深刻なのか、ということをこのニュースを読んで考えました。
結論からいえば、「自粛」の方が深刻なのではないか、ということです。
誰にとって深刻なのか、というと、今回でいえば、NHKにとってです。


「強制」であれば、NHKからすればその「強制」を受け入れるという判断を自分でしたのだけども、「押し付けられた」という自分の意思ではない判断で行った、ある種の「一回性」とした扱うことが可能です。「この処置は今回に限ってですよ。あくまで特別です」といったエクスキューズをつけることができ、特別な処置であるから、次はこれまで通りのルールを適用することもできます。
(「強制」を嬉々として受け入れる、毎回「強制」されてそれが特別でなくなる、ということも有り得ますが)。


対して、「自粛」は、その判断の主体は完全に自分たちです。自分たちが主体であるので「自」から「粛」すわけです。「自粛」する前提に、他からの働きかけがあろうが、その主体が自分たちであることに変わりはありません。
ですので、「自粛」することを「正当化」させなくてはなりません。
そうしないと、「自粛」が「自粛」のまま表面化してしまいますから。「自粛」は他人にバレたら恥ずかしいものですから、表面化させたくないものです。
表面化させないように「正当化」させる方法として、「ルール変更をする」が考えられます。
それも大々的にではなく、さらっとするでしょう。
「ちょっと変えましたが、ほとんど変わってませんよ」なんて。
そんな形で、「自粛」は自分たちのルールを変更してしまうことに繋がりえます。
ルールが変更されれば、当然それは恒久化されることを意味します。
「強制」は一回性でしたが、「自粛」は恒久化を促します。
そこに「自粛」の「強制」以上の深刻性があるのではないかと僕は思います。
さらに隠したい願望を内蔵する「自粛」は、表面に出にくい点もその理由になります。
そして行き着く先は、「自粛」している本人が「自粛」している意識がなくなる、といった地点であり、そうなったらその組織は「自粛」内容を完全に血肉としたことになり、それはもう端から意識的にみている人にとっては絶望的な状況と言えます。
その血肉は当然贅肉なわけですが。

ちなみに、年末に放送されたテレビ朝日系「検索ちゃん」という番組では、爆笑問題集団的自衛権ネタを含む漫才をしていました。

揺らぎ始めた「原発大国フランス」


欧州の電力業界へ次々に変革の波が押し寄せている。3.11以降にドイツやイタリア、スイスなどが「原発ゼロ」への道を選択し、スペインも原発を新設せず、再生可能エネルギーのシェア拡大へ舵を切った。そこに拍車を掛けたのがフランス。2012年の大統領選で原発依存度を75%から50%に引き下げる公約を掲げて当選したフランソワ・オランドの政権下で「縮原発」が進んでいる。
(中略)
10月10日に仏国民議会(下院)が原子力設備容量の現状(6320万kW)凍結や2030年までに再生エネの発電シェアを32%に引き上げることなどを盛り込んだ「エネルギー移行法案」を可決すると、オランド大統領は「縮原発」路線が議会の信任を得たとして、直後に、政策遂行に立ちはだかっていた国有電力会社のトップ更迭を決断したのだ。
(中略)
をきっかけに世界各地の原発新設計画凍結や安全対策強化に伴うコスト増、さらに日本をはじめ取引先の原発稼働停止に伴う燃料販売の急減などで収益が悪化。純損益は11年12月期(通期)に24億2400万ユーロ(約3540億円)、12年12月期に9900万ユーロ(約140億円)、13年12月期に4億9400万ユーロ(約720億円)と3期連続の赤字。さらに14年1〜6月期も6億9400万ユーロ(約1010億円)の赤字だった。
(中略)
アレバの経営危機は、世界の電力市場に大きなインパクトを及ぼしている。英国では、南西部のヒンクリーポイントで20年ぶりの原発新設計画が進められており、EDF中国企業2社と組んでアレバ製EPR2基を建設する予定だが、先述したフィンランドやフランスでのEPR建設の難航で、この計画を危ぶむ声が広がっている。日本勢では、三菱重工業がアレバと共同開発した中型の新型加圧水型軽水炉(PWR)「アトメア1」の売り込みに力を入れ、トルコの黒海沿岸都市シノップに4基を建設する計画だが、パートナーであるアレバの動向次第では、プロジェクトが大幅に見直される可能性も否定できない。
 アレバは14年1月にスペインの風力発電大手『ガメサ』と洋上風力発電合弁会社を設立したのに続き、米『ゼネラル・エレクトリック(GE)』と独シーメンスが4〜6月に争奪戦を繰り広げた仏重電大手『アルストム』の買収騒動では、実現はしなかったものの、アルストム風力発電部門を買収する意向を明らかにしていた。つまり、原発ビジネスの先行きの危うさを、アレバ経営陣も実感しているわけだ。オランド政権に近いEDFのCEOレヴィとアレバ取締役会会長のバランが、今後、フランスの電力ビジネスの流れに大きな変革をもたらすかもしれない。
(記事抜粋)


ハフィントンポスト 2015/1/8
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/shaking-france-nuclear-power_b_6426454.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001


このニュースは、「そうなんだあ」といった感想のみなのですが(笑)。
原発大国」と認識されているフランスにおいて、様々な状況で原発が縮減される可能性がある、というのは興味深いものです。
日本において原発がなくなる方向にいかない理由を、
「日本人に科学的思考性がないから」
ではないか、と最近思うようになりました。
他の電力との比較コスト、放射線量などによる事実として存在する処理の困難性、事故後の避難の困難性など、詰めれば分かることを判断の基準にしないのが日本人です。
「詰めれば分かることを判断の基準にすること」を科学的思考性とここでは言いますが、
日本人はそれより優先して、原発に関連する特定の人の利益や核保有可能性を示すといった、原発運用において非科学的思考性である「あやふやなもの」を採用します。
それが科学を0から作り出した西欧と、既製品を輸入することで科学が50から始まった日本との違いなのかな、と仮定しています。