「謝罪」について考える

司馬遼太郎さんの対談集が面白いです。
文春文庫で、全10巻で発行されています。
関川夏央さんが監修をしていて、宗教、戦争、日本のはじまり、日本語、日本文明など、それぞれの巻にテーマが設けられています。
それらテーマを語る対談相手が、山折哲雄さん、井上ひさしさん、湯川秀樹さん、丸谷才一さん、大岡信さん、岡本太郎さん、梅棹忠夫さん、子母澤寛さんなどなど、とにかく豪華です。「当代の‘知’ここに集結!」といった趣きで、ページをめくりながらゾクゾクしちゃいます。


第8巻『宗教と日本人』の中で井上ひさしさんとの対談があります。
「日本人の器量を問う」というタイトルが付けられた、『現代』1996年1月号に掲載された対談です。司馬さんは1996年2月に亡くなったので、最晩年のものになります。
井上さんが1972年に『手鎖心中』で直木賞を受賞した時に司馬さんが審査員であり、なおかつ井上さんを激賞した縁で、二人は旧知の仲以上の関係だったようです。
その雰囲気が対談にもそのまま表れていて、とても落ち着いて読むことができ好ましいです。


その中で井上さんの言葉として次のようなものがあります。

最近、憲法学者樋口陽一さんに、同じ敗戦国である西ドイツは再軍備したけれども、そのへんはどうなんですかと聞いたところ、答えはこうでした。
 西ドイツはかつてナチス・ドイツがいろんな国に迷惑をかけたということを、つまり当時のドイツが間違っていたということを、たえずフランスはじめヨーロッパの国々に´表現‘している。これを僕なりに言い換えると、西ドイツ政府は周辺諸国に、ことあるたびに、「いまの国のありようと、ナチス・ドイツ時代の国のありようとは、政治的に<<断絶>>している」ということを言いつづけてきました。


司馬遼太郎対談集8 宗教と日本人』P137


ドイツが戦後どのようなことをやってヨーロッパ諸国に受け入れられていったのか、ということについての法学者・樋口陽一さんの言葉を井上さんが紹介した箇所になります。
この文章の含意として、「同じ敗戦国にあって、日本は周辺諸国に一向に受け入れられないが、ドイツはヨーロッパ周辺国に受け入れられている」という、二国の違いについての疑問があります。
残念ながらこの対談当時の1995年と2014年の現在とで、そのことについての状況に大した変化はありません。
変化はあったかもしれません、周辺諸国の反発がより大きいという。
今でも日本は周辺諸国に受け入れられていません。
中国、韓国の日本の歴史認識に関する言及を聞けば瞬時にそのことは了解できます。
対してドイツは現在においてEUのリーダーとまでなって、受け入れられています。
受け入れられるどころか、ヨーロッパになくてはならない存在となっています。
その違いはどこにあるのか? という疑問を当然考えたくなりますが、両国の状況、地勢などが全く違うので、なかなか単純な比較は難しそうです。
そこで最低限の共通項を考えてみたいと思いますが、それこそ井上さんが疑問に思っていた、「ドイツと日本の周辺諸国に対する行動」ではないでしょうか。
そしてその行動の中で大きな要素になるのが、「謝罪」だと僕は思います。


さきほど引用した

西ドイツはかつてナチス・ドイツがいろんな国に迷惑をかけたということを、つまり当時のドイツが間違っていたということを、たえずフランスはじめヨーロッパの国々に´表現‘している。


は、ドイツの「謝罪」を表しています。
この「表現」には様々なものが含まれているでしょうが、「謝罪」もその一つに違いありません。
ドイツは常に「謝罪」をし続けることによって、ヨーロッパ諸国に受け入れられるに至ったことを樋口さんは指摘しています。


日本は現在までに公式として26回謝罪しているそうです。(11月11日(火)TBSラジオ「Session22」内、遠藤誉さん発言より http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/11/20141111-1.html
一部の人からはその回数をもって、「すでに何度も謝罪しているのに、中国、韓国はまだ謝罪しろと言うのか!」といった言葉を聞くことがあります。
恐らくこの言葉は彼らの正直な気持ちなんだと思います。
「こっちが下手に出てりゃ、調子に乗りやがって!」という気持ちでしょうか。


僕個人の意見をいえば、


1、 日本が周辺諸国に与えた被害を考えれば、回数ではない。あえて回数でいうなら、相手が「まあまあ、お顔をあげてくださいまし」と言うまでの回数を謝罪し続けなくてはならない。
2、 謝罪をした後に、「あの戦争は侵略じゃなかった」とか言うのを聞いたら、そりゃ周辺諸国も信じることはできないでしょう。「本当に申し訳ありません」という人間が他の場所で、「オレは悪くない」というのを聞いたらそんな人間信じられません。


といった感じですので、先に引用した樋口さんが語るドイツのマナーには深く共感します。
日本も表現の仕方はドイツと異なっても、常に「謝罪」を表すことは必要でしょう。
それを「こっちが下手に出てりゃ、調子に乗りやがって!」に絡めて語ることはお門違いだと思うのですが、あえて一端それらと歩調を合わせてみるのも価値のあることだと思います。
「こっちが下手に出てりゃ、調子に乗りやがって!」と思うのを当然と考えることは何に由来しているのか? ということでその試みをしてみたいと思います。


方法としては、根源的な部分で思考を支配するものである言葉、つまり日本語における「謝罪」の扱われ方を考えることを採用します。
人間は全て、自分の母国語によって思考、行動、感じ方などを支配されています。
人が亡くなれば自然と悲しくなるわけではありません。「悲しい」という言葉があるために、それが「悲しい」となるのです。仮に「悲しい」という言葉がなければ、それは収束のつかない感情として放置されるのみです。他人とも「悲しい」という言葉で共有でき、伝えることができるのです。
例えば、「友情」という言葉がなければ、その世には友情は存在しません。ただの「仲が良い人たち」です。それも個別の一例としてのみの存在しか許されず、そこからは「友情」という括りで広く共有される物語は発生しません。「友情」という言葉がなければ、「仲の良い人たち」は永遠にそのままで、「友情」に昇華されることはありません。その世の中には、「友情」は存在しないことになります。
該当する言葉が日本語にあるから、日本人はその言葉を使い、そこからうまれる感情、行動、思考をできるようになるのです。


それを基礎として、日本語で「謝罪」に関連する言葉をひろってみます。


遺憾千万
平身低頭
過ちては改むるに憚ること勿れ
君子は豹変す
既往は咎め
水に流す
チャラにする
罪を憎んで人を憎まず
不問に付す


これらだけではありませんが、ざっとひろってみました。
「謝罪」そのものの言葉と、その後についての言葉です。四文字熟語、ことわざ、慣用句などその形は様々なですが、多くの「謝罪」に関する言葉が日本語にはあります。(当然、ほかの言語にもありますが)
一端ではありますが、日本人の「謝罪」感はこれらの言葉により規定されています。
この支配から逃れることはできません。当然、ここに他の思考をからますことで、結果的に違った「謝罪」をなすことも可能ですが、「謝罪」の原型はここから出発するしかありません。
上記の言葉は僕の意思でひろったものなので差し引きは必要ですが、
眺めているとこんなことを思います。
すなわち日本人の「謝罪」とは、
「間違えたことをしたとき、それが分かったときはそれこそ´平身低頭´で謝るが、一度謝ったら´既往は咎めず´に´水に流す´ことを常とする」
ものなのではないでしょうか。
このように日本人は「謝罪」を規定しているのではないでしょうか。
確かに日常生活で、一度謝罪が行われたことについてはグチグチ言わない、という暗黙の了解のようなものがあるのを感じます。そこでグチグチいったら、むしろその人の方に白い目が向けられたり。
この「謝罪」感を下敷きにすると、中国、韓国の「謝罪が足りない」という言葉とは真っ向から対峙することがよくわかります。
「こっちが下手に出てりゃ、調子に乗りやがって!こっちはちゃんと謝っただろ、何度も何度もうるせえよ!」
です。
国内的には「何度も何度もうるせえよ!」という言葉は一定の理解を得ることができるはずです。
僕はさきほど「何度でも謝罪をすべき」と書きましたが、そんな僕でも、
「何度も何度もうるせえよ!」の意味するところは理解できます。
日本語を母国語とする日本人ですから。日本語の「謝罪」感をもつ者の一人ですから。
しかし、戦後の日本の態度に対して「謝罪が足りない」と言っているのは、
日本語の支配を受けない中国、韓国です。
日本語の「謝罪」感などまったく知らない、関係ない国外の存在です。
そのような相手に日本語の「謝罪」感をもって対応してもうまくいくはずがありません。
そんなものは一端脇に置いておいて「謝罪」について考えるべきですし、
相手方の言葉のよる「謝罪」感を学び、それに沿う「謝罪」を行うのが筋です。
悪いことをしたのはこちらなのですから。許すのは相手で、許してもらうのはこちらなんですから。
「一度謝ったんだからもういいだろ」という日本語的「謝罪」が通じるはずもない。
そんな態度であるなら、相手方は許すはずもない。
それが現実に起こっているわけで、さらに別の場所に行ったら「オレ悪くないもんね」というさらなる不誠実さを表明しているんだから、中国も韓国も許すはずがない。
「中国と韓国が言い掛かりをつけている」というのは、一定のうちで事実でしょう。
国内問題や外交の道具用に。僕もそう思います。
しかし、日本にそのことは関係ありません。
日本に関係あるのは、いかに許してもらうかです。被害を与えた国としていかに許してもらうか。
そして受け入れてもらうか。
そのためには、日本の「謝罪」感は一端置いておいて、誠実に謝罪しつづけることです。
ドイツのように。
これこそ典型的な「自虐」なのでしょうが、僕はそんなレッテルを貼られても許してもうら方が良いです。
許す決定権は先方にあるのは間違いないですが、謝罪しつづける相手に対して「謝罪が足りない」とは言えないでしょう。難癖付けたくても、ほかの国の目もありますし。
当然その謝罪は回数だけを目的として、心がこもっていないようだったら「謝罪が足りない」が続くのですから、しっかり誠意をもってです。


日本が中国、韓国をはじめ、東南アジア諸国に多大な被害を与えたということは、
極めてシンプルな事実です。
日本語という、日本人にとって切っても離すことができない規定=感情に直結するものを一端置いておいて、もう一度「謝罪」について考えてみることが、中国、韓国との外交関係を回復させるために遠回りのようで最も近い方法なのではないか。
そんなふうに思います。