ICT教育について思うこと

学びを変える? 〜デジタル授業革命〜


今、子供の学力を大幅に向上させるとしてICT(情報通信技術)の導入が急速に進んでいる。今年、佐賀県は全国で初めて県立高校の新入生「全員」にタブ レット端末の購入を義務づけ、デジタル教科書と電子黒板を用いた双方向の授業を開始した。従来の一斉学習ではできない、個人の習熟度に応じた学習で、理解 促進を深めるだけでなく、地域による教育格差を減らして地方を活性化するのが狙いだ。しかし、日本に先んじてICT導入を積極的に進めてきた韓国では、子 供の学習意欲に影響を及ぼすとしてICT推進にブレーキがかかっている。ICT導入は学力向上の切り札となるのか。日本と韓国の現場から迫る。


2014年9月8日(月)放送
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3547.html
http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/196774.html


 9月8日のNHKクローズアップ現代』で取り上げられていたテーマは、「学びを変える? 〜デジタル授業革命〜」というものでした。
タブレット端末を使っての学校の授業の現状・課題などを紹介する内容でした。
タブレット端末のような技術を使った教育を、「ICT教育」というそうです。
「Information and communication Technology」の頭文字をとった言葉で、「情報通信技術」という意味のようです。世界的にも広がっているそうです。


日本ではタブレット端末を使っての学習が世界各国に比べて遅れているそうです。
一つの例として、放課後のタブレット端末を使用しての学習時間を比較していました。
詳細は忘れてしまいましたが、調査国中最上位だったオランダは約60%の子供が放課後にタブレット端末を使用して学習しているのに対し、日本の子供のそれは約8%という、まさに桁違いの少なさである、とのことでした。その数字は調査国中、最下位のものでした。
その流れの中で、急いでキャッチアップしなくてはならない、という危機感のもと、タブレット端末を使った授業が広く行われている佐賀県のある学校が紹介されていました。


冒頭の引用文にもありますが、タブレット端末を利用することのメリットとして、


● 教育の地域格差を克服できる。
● 従来の一斉授業でなく、個人個人にあわせた学習ができる。
● 生徒が勉強を楽しくなる。
結果、生徒の理解が進む。


などのことを期待しているそうです。
確かに便利な気がしますし、期待するメリットに対しても有効なような気もします。
しかし、な〜んか怪しいなあ、とも同時に感じました。こういう時は後者の感覚に重きを置くことを常としているので、そちらに沿ってICT教育を考えてみました。
想定メリットを一つずつ考えてみることで、その中身を見てみたいと思います。



【教育の地域格差を克服できる】


教育の地域格差というのは数字として確かに表れているようです。

【参考】ベネッセ教育総合研究所
「教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書」
http://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/kyoiku_kakusa/2008/kyoiku_kakusa_Chapter1_01.html


このような調査を確認するまでもなく、佐賀県という地方の学校関係者は身を以て感じていることなのでしょう。それを解消したいというのは当然のことであり、行政として対処すべきものと言えます。
その方法として、佐賀県では「学校の授業をもっと良いものにしなくてはならない」という判断のもと、タブレット端末を使った授業を開始しました。
佐賀県学校行政の関係者の方が、タブレット端末を使った地域間格差を解消する手立てをこのように語っていました。
「東京などの講義をタブレット端末で受講することができるから、中央と同じ水準の授業を受けることができる」
正確な言葉ではありませんが、だいたいこんな感じでした。
予備校のサテライト授業のような感じですかね。
このような施策を佐賀県が実施した理由を考えると、
「都会との教育格差の要因は教師であり、その人間による授業にある」
ということになるはずです。
求める効果が生徒の学力向上で、そのための施策内容が、「都会の一流教師(講師?)の授業を受けることができる」なのですから。
目的は生徒の学力向上です。それに対して、都会の教師の授業をタラブレット端末で見る方が、佐賀県の教師の授業を受けるよりも学力向上に対して良い影響があると判断したわけです。


 実際、どのような理由により教育の地域間格差があるのか、僕には分かりません。
学校の授業かもしれませんし、塾の内容かもしれません。他の理由かもしれません。
なので、佐賀県の認識は正しいのかもしれません。東京の教師の授業をタブレット端末で受けることで学力が上がるのかもしれません。
ただ、そんな分からないものだらけの僕でも分かる一つのことは、そんな教師が子どもたちから敬意を持たれることはないだろう、ということです。
子どもたちは敏感です。「なんで教師が目の前にいるのに、東京の教師の授業を受けるのか?」ということに対して、子どもたちは決して良い解釈をしないでしょう。
目の前の教師よりも東京の教師の方が格上である、という認識は自然のものとして広がるでしょうし、個々人の頭にも刻まれるでしょう。
そのように認識された教師の教育が上手くいくのか甚だ疑問です。内田樹さんの著作に『先生はえらい』というものがありますが、まさにその言葉通り、「先生はえらいもの」でなければ教育は機能しないものだと僕は考えています。人間的に偉い必要はありません。ろくでもなくても良い。(人間的にも素晴らしい人の方が良いのでしょうが笑)「何だかわからないけど、自分が知らないことを知っていそう」という生徒の意識が、「先生はえらい」の肝となるものです。ある意味の神秘性と言いましょうか、何だか分からなさが醸す雰囲気が「先生はえらい」に繋がるのだと思います。夏目漱石三四郎』の広田先生‘偉大なる暗闇’といった感じでしょうか。
東京の教師より下とみなされた教師がそのような雰囲気を醸すことが可能か? と問われれば、即座にNoと答えるしかありません。「知っていそう」どころか、その逆に「どうせ知らないんだろ」という蔑みと言ったら大げさかもしれませんが、その方向の感情を生徒がもつことは事の流れとして自然のことでしょう。そしてその感情は、教科に関してのみならず、生活指導や日常の指導に対しても同様なものとして教師に向かうのではないでしょうか。生徒(だけでなく人間)は都合よく教科についてのみついて感じてくれるものではありません。


教育とは、教科を教えるものだけではないと思います。学校の存在理由を「まっとうな人間に成長させること」だと考えている僕にとっては、生活指導も日常の指導も教育の範疇です。なくてはならないものです。仮に学校の教師よりも、東京などの教師の授業をタブレットで受けることでテストの点数が上がったとしても、それによって「教育」が上手くいかない事態になれば、それは大きなマイナスとしか思えません。そしてこれまで見てきた理由により、それは実際に起こることだと僕は考えます。「教育」の基本は、目の前にいる教師を生徒が蔑まない環境を作ることです。
 番組で取り上げていた方法はその反対の環境を作るもののように感じました。もしかしたらそれでテストの点数は上がるのもかもしれませんが、つまり、「教育の地域間格差を解消できる」という認識なのかもしれませんが、それはあくまで「テストの点数の地域間格差の解消」であって、「教育の地域間格差の解消」ではないでしょう。再三になりますが、「教育」とはテストの点数を上げることだけでなく、人に挨拶し、優しくし、殴らずに、自分の思いのみを優先させずに、人のことを考えるなど、「まっとうな人間」にすることも含まれるものだと思うのです。テストの点数を上げることが教育というならば、その教育は狭すぎますし、間違っていると僕は断言します。

 
 これまで見てきたものをとって、「地域感格差を埋めるためのタブレット端末授業はダメだ」と完全否定するつもりはありません。しかし、日々接する教師のことを生徒が蔑むようになる施策であるなら、それは「教育」にとっては有害である、ということは言っておきたいと思います。



【従来の一斉授業でなく、個人個人にあわせた学習ができる】

英語の教科書には発音の速度を変えて再生できる機能があるため、自分のレベルに合わせて学習ができます。数学はタブレット端末を教科書にかざすと、立体図形が3Dで表現されます。
http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/196774.html


 番組HPよりの引用になります。クラス全員が同じスピードで進む従来の授業ではカヴァー出来ない部分を、タブレット端末授業によって埋めることができる実例として挙げられています。自分のレベルにあわせて進めることができる、ということと、紙の教科書では見ることのできないものを見ることができる、ということですね。


 ここで考えたいのはそもそも勉強とは何なのか? ということです。番組を見て、またこの引用文を読んで僕が率直に思ったことは、「自分と同じレベルのもので勉強して何の意味があるのだろう?」ということと、「見えないものを頭の中で考える、想像することが勉強の本質ではないのか?」ということでした。
確かに自分のレベルにあわせた問題は心地よいものです。「分からない」という心的負荷がありませんから。僕も英語のリスニング勉強をする時、気持ちのみに従うと自分と同じレベルか、もしくは自分より下のレベルの教材を選んでしまいます。リスニングの分からないのは極めて心的負荷が強いので、自分を律しないとそういった方向にいってしまいます(笑)。そんな僕だから分かりますが、英語のリスニングで、自分と同じレベル以下のものをいくら聴いたところで上達することはありません。当然のことですが、分かるものはすでに自分で理解しているものです。それをいくらやっても成長しません。なぜなら成長とは、分からなかったものを分かるようになることを指すからです。それは英語のリスニングだけの話ではありません。どんな教科にでも共通することです。その意味において、自分のレベルと同じ教材で勉強できることは、学力を上げることに対してメリットにはならないのではないかと僕は思います。


もう一つ、立体図系を3Dで見ることができることもメリットとして挙げられていますが、さきほどの率直な感想のとおりで、「それを想像するのが勉強の本質なのではないか?」ということです。確かに図形が3Dで見ることができれば、平面では見ることができない部分を確認できるので、問題を解くことには役立つでしょう。しかし、算数や数学の問題で求められることは、解答も当然でしょうが、それに至る過程であり、その過程を作る道具を頭の中で組み立てることなのではないでしょうか。先に挙げた図形を3Dで見るということは、過程を作る道具を自分の頭の中で組み立てることなく、第三者からもうらうことのようなものだと思うのです。それは算数、数学によって期待される個人の能力の向上を阻害することになるのではないかと思います。最初の理解を助けるためだけで毎回見るわけではないのでしょうが、それにより「図形を頭の中で理解する」というタイミングを失うことには変わりありません。
「分かりやすくする」ことによって、本来求められるべき能力の向上を阻害されるならば、それはまさに本末転倒と言わねばなりません。自分のレベルに合わせる、分かりやすくすることにより理解しやすくなりますが、それは「勉強した気になる」だけで、「勉強をする」こととは本質的に違うものではないでしょうか。僕はそのように考えます。


 また、上記二つの例とは他に、番組では個人個人にあわせた学習ができることについて、「生徒一人ひとりがタブレット端末を使うことで、進み具合やどんなところにつまずいているのか、などを教師が確認でき、適切な指導ができる」ということが紹介されていました。教師が持っているタブレット端末に、生徒の問題を解く進捗がリアルタイムで映し出されていました。それを見て、「○○君はこういうところが苦手なのか」「●●さんはちゃんと分かっているようだ」とかを確認できる仕組みになっていました。確かにこれは素晴らしいものだと思います。それを見ながら教師は生徒の指導方法を考えることができます。ただそれは極善のような気がしてなりません。


 論理的には生徒一人一人の進捗を確認できることは善です。しかし、現実的に教師が全ての生徒に、それぞれの生徒の進捗に合わせた指導ができるのでしょうか。僕には甚だ疑問です。全ての生徒に適切に指導する時間なんてないような気がします。授業時間は限られているし、それ以外の時間も限られています。仮に教師が進捗状況を把握していながらもそれぞれの生徒に適切な指導をしなかった、となれば、それは恐らくその教師の怠慢と判断されるでしょう。「分かっているのになぜやらないんだ」と。「いや、時間がなくてできない」と言ったところで、「適切な指導をするためにタブレット端末を導入したのに、それを使えない無能な教師」という評価されるのがおちです。その結果、教師は意欲を失う可能性が多いにあります。論理的には善であっても、それによって教師の気持ちと時間が追い詰められるようなら、現実的には悪となります。その悪がもたらす影響は、「教育」を満足にできない教師を増やすことに繋がるだろうと僕は考えます。そして、当然それが生徒に大きな悪影響を与えることは容易に想像できます。


 以上のように、個人個人に合わせる学習も問題があると僕は考えます。それも当然程度問題なのですが、タブレット端末を使うことはその程度をかなり引き上げることになると思います。その引き上げ度合いの大きさが魅力的だからタブレット端末を授業に取り入れるのでしょうが、それは恐らく上手くいかないと僕は思います。




【生徒が勉強を楽しくなる】


 最後に「生徒が勉強を楽しくなる」です。ここでも番組HPより引用したいと思います。

自分が学校に通っていた頃、こんなに楽しい教材があったら、数学がもっと好きになっていたかもしれないと感じました。タブレット端末を授業に取り入れ始めた佐賀県のある学校では、生徒たちが数学の授業が「楽しくできる」と感想を語っています。


http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/196774.html


タブレット端末を使った生徒の感想として、「楽しくできる」という言葉が取り上げられています。さらに、取材者自身、「楽しい教材」「数学がもっと好きになっていたかもしれない」と言っています。「好きこそものの上手なれ」といいますが、まさに好きなことの上達は早いものです。好きの有力な前提の一つは「楽しい」があると思いますから、タブレット端末授業によって、勉強が好きになるという流れを引用文からは感じることができます。実際取材者は「好きになったかもしれない」と言っています。


 しかしここで思うことは、その「楽しい」はどんな種類のものなのか? ということです。言葉尻を捉えるようですが、引用文の生徒は「楽しくできる」と言っています。ここで指す「楽しい」は、「できる」から見て、その方法に対してのものでしょう。方法が楽しい、と言っているわけです。その手の「楽しさ」は飽きるものです。方法の「楽しさ」は目新しい時は楽しいかもしれませんが、飽きたら最後、一瞬でそれは失われます。タブレット端末における操作は楽しいでしょうし、それを使うことで問題を解いていくのもまた楽しく感じるでしょうが、それも慣れたら何ら楽しくはないでしょう。
勉強自体の「楽しさ」は飽きることがありません。なぜなら勉強とは「分からないことを分かるようになる」ことであり、その数は無数にあるからです。数学もあれば、歴史もありますし、英語もあります。数学の中だけでも無数に「楽しさ」はあります。


 方法の「楽しさ」と、勉強自体の「楽しさ」は根本的に異なるものです。真逆といってもいいかもしれません。その違いの大きな点は、継続性との相性です。先にもみてきたように、方法の「楽しさ」は継続性と相性がよくありません。下手すると1回の寿命かもしれません。瞬間的な「楽しさ」と言えます。それに対し、勉強自体の「楽しさ」は継続性との相性が良い、というか継続性を必須とするものです。時間をかければかけるほど当然勉強は深くなりますし、深くなればなるほど「楽しさ」の数も、質も向上することは間違いありません。継続しなければ「楽しさ」を味わうことができないとも言えます。
タブレット端末を使っての学習は、方法の「楽しさ」を作るのに有効であるが、その分勉強自体の「楽しさ」に行く前に飽きてしまうのではないかと想像してしまいます。これは勘なのですが。その意味で、タブレット端末は勉強には向かないのではないか、とさらに勘を働かせてしまいます。


 以上、番組内で紹介されていたタブレット端末授業の3つのメリットを僕なりに解釈してみました。メリットどころか、デメリットじゃないか、という結論に達しました。実際、ICT教育が数年前から取り入れられている韓国ではこのような感想がでているそうです。番組HPよりの引用になります。

すでに導入している韓国では、使い方を見直す動きも出始めているといいます。その理由として、「子どもの学力に目立った成果が表れていない」「資料を検索すると簡単に結果が出るため、問題解決能力が落ちる」「子どもの読書量が減る」など様々なことが挙げられています。


http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/196774.html


韓国では一端立ち止まってICT教育を再検討する段階に入っているようです。


 タブレット端末を使うのが良いか悪いかは、0か100かのものではないでしょう。要は使い方であることは言うまでもありません。しかし、決してタブレット端末を主にしてはいけないと僕は思います。あくまで補佐であるべきものです。その理由はこれまで見てきた通りです。世界各国に比べ導入が遅れていると言われる日本では、今後得意の「追いつけ追い越せ」をスローガンに様々な地域で導入されていくことが予想されます。そんな世の中が当たり前になる前に、不具合満載な内容ですが、警鐘を鳴らしておきたいと思い、長々と書いてみました。