俳句不掲載や後援拒否について

「護憲後援拒否―霞を払い議論をひらけ」
朝日新聞 2014年5月2日
http://www.asahi.com/articles/ASG4Z4TFNG4ZUSPT006.html


「9条の会の出店拒否 「国分寺まつり」毎年参加一転」
東京新聞 2014年8月29日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014082902000139.html


 埼玉県の俳句の不掲載や講演会や祭の後援の拒否などの報道が、今年になって度々伝えられてきます。それらは、特定秘密保護法や武器輸出三原則緩和、集団的自衛権容認の閣議決定など、いわゆる‘右傾化’と絡めて論じられることが多いように思います。その‘右傾化’の流れの中で、県や市町村の行政や関連団体がそれを主導する安倍内閣のご意向を忖度することの結果が、俳句の不掲載や種々の後援拒否である、と。掲載拒否されたものや後援拒否された祭や講演の内容が、「日本国憲法9条を守れ」や「集団的自衛権反対」、「反原発」など、安倍氏の政策に真っ向から反対することが多いことから、安倍内閣忖度論は信憑性をもって受け入れられているのではないかと思います。


 しかし本当にそうなのだろうか、とも思います。確かに地方行政にとって、中央、特にその中央中の中央である内閣から睨まれることで不利益を被るということはあるのかもしれません。それにより予算が減らされるという具体的不利益もあるのかもしれません。その意味で内閣の意向を忖度するということは不利益から身を守る方法の一つである、という推測も成り立ちます。その分かり易い滑らかな流れが、今回の安倍内閣忖度論に信憑性を与えていることは否定できません。ただ、地方行政や関連団体の刊行物や祭、講演会などの後援を内閣が調査しているはずもないので、仮に憲法9条俳句を公民館が掲載しても、行政が憲法集会の後援をしても内閣に睨まれることはまずあり得ないでしょう。忖度とは、そもそも「睨まれるんじゃないか?」という疑心によって生まれるものなので、「それをさせるくらい‘右傾化’した安倍内閣の影響が大きい」という考えもできるかもしれませんが、実際に自分たちのやることなすこと全てが調査されているわけでないということを知っているのは当の行政や関連団体なので、疑心、そしてそこから忖度が仮に生まれたとしても、それが大きく成長することはないでしょう。もし、行政や関連団体が「内閣には常に調査されている」という意識でいるなら、自民党がほとんどの政権にあったこれまでも掲載拒否や後援拒否が頻繁に起こっていても何ら不思議ではありません。しかしそのような報道を見聞きした記憶が僕にはほとんどありません。


 それではなぜここのところ掲載拒否や後援拒否などが度々起こっているのでしょうか。それを考えるのには、拒否する側の言い分から入るのがよさそうです。彼らの言い分は言葉の端々は違いますが、大筋こんな感じです。


「国民的な議論がある問題なので、主観的な考えを表明するものは後援・掲載できない」


つまり、「反原発」や「憲法を護れ」、「集団的自衛権反対」が主観的な考えであるので、その表明は国民的議論がある中では公平性を標榜する行政はタッチできない、ということですね。
この言い分、表向きの=安倍内閣に配慮したものではなく、実は本当のことだと思います。
行政は本気でそのことを理由に拒否をしている。
ではなぜその理由で拒否をするのでしょうか? それは極めて単純なことで、「クレーム処理が面倒臭いから、時間がかかるから」です。行政はクレームが来そうなことをしたくないだけなのです。だから、「国民的議論がある問題」の拒否をしているのだと僕は解釈しています。


現在の日本において最もクレームが多い業種は、実際に住民と面と向かって接する地方公務員ではないでしょうか。僕の感覚では、クレームが「当然のあるもの」として表面化したのはここ20年くらいのことです。その間‘モンスターペアレンツ’などの言葉も生まれました。当然、それ以前もクレームはありました。お店でも、ホテルでも、役所でもどこでもありました。しかし、それ程社会問題化しなかったのは、単純にクレームがどうしようもないくらい激しくはなかったからだと思います。「まあ、そういう人もいるよね」くらいの。それがモンスター的に成長したのはなぜかを考えると、ある言葉が思い浮かびます。それは「行政サービス」という言葉です。この言葉がいつ頃から使われてきたのか分かりませんが、一般的に使われるようになったのは僕の感覚では1990年以降のような気がします。それはその時期から「行政がサービスである」という認識が広まり、定着したことを意味します。ここでサービスという言葉の意味を確認しておきます。

「サービス」
1 人のために力を尽くすこと。奉仕。「休日は家族に―する」
2 商売で、客をもてなすこと。また、顧客のためになされる種々の奉仕。「―のよい店」「アフター―」
3 商売で、値引きしたり、おまけをつけたりすること。「買ってくだされば―しますよ」
4 運輸・通信・商業など、物質的財貨を生産する過程以外で機能する労働。用役。役務。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/84361/m0u/


特に目新しい意味がないほどに当たり前の言葉ですが、改めて意味を見て思うことは、サービスというのが「下の者から上の者に対する行為という意味を含んでいる」ということです。そこにはその場での上下関係の意識がはっきりと存在しています。


そんな言葉が「行政」とくっついて「行政サービス」となったわけです。その言葉が一般的になった後に起こる現象は容易に想像できます。「行政は住民にサービスするものなのだろ? 俺らが払っている税金で飯喰ってるんだから、その分サービスをしっかりして、黙ってこちらの要求を聞けよ」です。ここには明確に住民が上で、公務員が下という意識があることは当然です。その意識は年々肥大化し、2014年現在当たり前のように定着しています。その結果の一つと言えるような話を聞いたことがあります。市役所に勤めていた親戚の話ですが、どの課でも最低2、3人は精神に支障をきたして休職している人がいるそうです。全てが全て住民の対応でそのようになったわけではないのでしょうが、その親戚曰くクレーム対応が一番の理由だそうです。それが全国的に共通しているものか確証はありませんが、報道や雑誌、ネットなどを見ると大きくずれた認識でもないと思います。そのような状況で行政がクレームに対して敏感になるのは当然と言えます。職員を守るとともに、組織を守るために対処を考えなくてはならない事案ですから。そして、その敏感になった結果の対応の一つが、「クレームが来そうなものには手を出さない」というものがあってもそれはそれで不思議ではありません。クレームから身を守る対処法としては間違ったものではないでしょう。そこらじゅうに怖い人がいる道にさしかかった時、「この道怖いから別の道行こう」という判断をするのと原理的には同じです。僕もそんな道は通りません。怖いです。触らぬ神に祟りなし、です。行政がクレーム案件になりそうな事案を表現する言葉としてこれほどピッタリなものはないのではないでしょうか。


俳句の不掲載や講演会や祭の後援の拒否などは行政からすれば、「触らぬ神に祟りなし」なのです。彼ら曰く「国民的な議論がある問題なので、主観的な考えを表明するものは後援・掲載できない」ですので、触りたくないということです。だから不掲載にもするし、拒否もするわけです。そこに‘右傾化’は関係ありません。


そう考えると、俳句の不掲載や講演会や祭の後援の拒否などは国民、住民の長年に及ぶ過激なクレーム行動から起こったとも言えます。実際にそれは事実だと僕は考えます。サービスを享受することに貪欲となったモンスターが行政を委縮させてしまった、ということは考えなくてはならない問題です。これはこの稿で取り上げている俳句の不掲載や後援の拒否などのことだけでなく、極めて多岐にわたる問題ですから。


 しかし、だからと言って住民に全て責任があるかといえば、もちろんそんなことはありません。当然行政にもその責任はあるわけです。そして、その大きさは、直接決定の判断をしている行政の方が重いことは言うまでもありません。間接的には住民にも責任はあるが、直接的な責任は行政にある。僕は、俳句の不掲載や講演会や祭の後援拒否についてそのように考えています。それではなぜ行政に責任があるのでしょうか、ということを考えたいと思います。


 それには行政の役割を考える必要があります。ここで言う「行政」とは、俳句の不掲載や後援の拒否を決定したような地方の役所や関連団体などを指しますが、それらの役割は、ただ地域を円滑にまわすだけではないと僕は考えています。年金や保険、税金、戸籍、住民票などを滞りなく処理することは当たり前のことです。それも役割の一つですが、それだけではありません。それが何かと言えば、「日本国の憲法、法に則った組織としての行動を示すこと」です。それも行政の役割だと僕は考えます。それがまず第一の方針としてあるべき組織こそ、行政です。行政がその役割をまっとうすることによって、そこに住む人々にも日本国は憲法、法によって運営されていることを日常的に示すことができるのです。行政が、憲法や法を理解し、守るまっとうな日本人を育てることは極めて重要なことです。それを鑑みるに、この稿で取り上げている俳句の不掲載や講演会や祭の後援拒否は行政として問題ない決定だったのでしょうか? 僕にはそうは思えません。明らかに行政の役割を無視した、自分たちの都合のみを考えた決定だったと思います。その決定は憲法の基本理念である、国民主権や自由を侵す行為ではないでしょうか。「クレームがきそうだから・・・」などという自分の都合を、憲法や法より優先させてしまった行政の役割を拒否した決定である、と言えます。その意味で、俳句不掲載や種々の後援拒否における行政の責任の重さは極めて重いものだと思います。
 

 この問題を‘右傾化’と考えることは、そのことを見逃してしまいます。世の中が‘右傾化’している、という言説はここ1年でよく聞きますし、そういった流れも実際にあるのかもしれません。しかし、それっぽいことを全てその一点に理由を求めることは危険なことだと思います。俳句不掲載や種々の後援拒否の決定は、‘右傾化’よりもより重大な理由によってなされたと僕は考えています。行政の役割を拒否した結果ですから。行政の「公平」という基軸を「どんな主義主張も取り上げない公平」におき、「どんな主義主張も取り上げる公平」におかなかったわけです。確かに、「どんな主義主張も取り上げる公平」を採用した際、行政の仕事量は増えるかもしれません。それこそクレームがいろんな方面からくるかもしれません。しかし、行政の確固たる考え(どんな主義主張も取り上げる公平)をもとにクレーム対応を職員に徹底させれば、充分対応できるのではないでしょうか。中途半端な考えによるクレーム対応が職員を窮地に追い込むのです。その仕事は行政の役割をまっとうするために負わなければならないもののはずです。それを放棄した行政の責任は重く、批判されるべきものと思います。


分かり易い‘右傾化’を理由に求めることで、その大きな問題を見逃してしまう可能性もあります。分かり易い事象に理由、解答を求めることの怖さは自覚しなくてはいけない。そんな風に僕は思います。