「抑止力」を考える

靖国参拝集団的自衛権には何の関係もありませんし、ナショナリズムから集団的自衛権を議論しているわけでもありません。地域における抑止力を高めるか否か。問われるべきは、その一点です。


文藝春秋SPECIAL『米韓中日本包囲網 平成ナショナリズムは日本を幸せにするのか』P106、107
石破茂氏、潮匡人氏対談より石破氏の発言


ここで石破氏は集団的自衛権がなぜ必要かと言えば、
それは「地域における抑止力を高めること」と明言しています。
安倍氏もこの種の発言をしているので、政府、自民党の考えとみて間違いないでしょう。
その必要な理由にはこのような言葉が続くのでしょう。
「地域における抑止力を高めることで、日本に敵意を持つ国に攻撃の意思を砕かすことができる。それで平和を保つ」


では、「抑止力」とはどんな意味を持つのでしょうか。
そこから考えてみたいと思います。
まず辞書で調べてみます。

【抑止力】
活動をやめさせる力。思いとどまらせる力。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/227125/m0u/


日本に攻撃の意図をもつものに活動をやめさせる力が抑止力であると。
日本を攻撃したいけどそれをさせないようにする力というわけですね。
石破氏の発言をこの意味にあてはめると、
「日本に攻撃の意図をもつものに活動をやめさせる力=抑止力=軍事力」
となります。
日本を攻撃する意図がある国と同等の、それ以上の軍事力をもてば攻撃されない、
という確固たる意思のもと政府は集団的自衛権容認の閣議決定をし、自民党はそれを支持したということになります。
抑止力に対する絶対的な信頼がなければできない芸当です。
とても筋が通っているように聞こえる話です。
「自分と同じ力を相手がもっていたら、仕返しされるから攻撃しないでおこう」
という分かりやすい話。
この論理に従うなら、ガザで現在起きているイスラエルハマスの戦争(まさに戦争です)は、ハマスイスラエルと同等か、それ以上の軍事力を持っていれば発生しなかった、
ということになります。
今回の戦争は、イスラエル空爆から開始されました。(7月1日)
言わば、‘力が強い方’から始めた形です。
‘力が弱い方’=ハマスイスラエルくらいの軍事力をもっていなかった=抑止力がなかったから、今回の戦争が起きたというのが政府、自民党の論理であるはずです。
ハマスがその抑止力を持っていることを現実のものとしてできないので、
その真偽のほどは分かりません。
重要なことは、政府、自民党が抑止力に絶対的な信頼を寄せていることです。
しかし僕は思います。
政府、自民党の論理は歴史が既に否定しているのではないか?ということを。
太平洋戦争です。


太平洋戦争はご存知のとおり、昭和16年12月8日(日本時間)にアメリカの真珠湾を日本が攻撃することで始まりました。
日本側から言えば、戦果は凄まじいものでした。
戦死者 ⇒ 64(日本):2395(アメリカ)
艦船被害(撃沈) ⇒5(日本):12(アメリカ)
航空機被害(破壊) ⇒ 29(日本):164(アメリカ)
まさに大戦果です。
しかしこの記録的な戦果とは裏腹に、当時の日本とアメリカの国力の差は如何ともしがたいレベルで存在していました。

開戦前の時点で日本とアメリカの国力差は、アメリカは日本に対してGNPで10〜20倍、石油生産量で700倍に及んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89



(海軍戦力では日本の方が多かったのですね。しかしどうしようもない国力差によってすぐに逆転されます。)


つまり太平洋戦争は、戦力の弱いものが強いものに喧嘩をふっかけた戦争と言えます。
国力差をみれば、勝てるはずもない戦争を日本はしたということになります。
それは当時の軍人も当然認識していたことです。

余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい。
近衛文麿『近衛日記』


発言主は山本五十六氏です。真珠湾攻撃の際の連合艦隊長官であり、最高責任者です。
1年はできても、2、3年は無理だと。それは当然国力の差を判断した結果でしょう。
その山本五十六氏の言葉通り、開戦から3年8ヶ月後に戦争は終わります。
日本の敗戦です。


その歴史的事実からわかることは、抑止力があっても戦争は起こりうるということです。
太平洋戦争でいうなら、アメリカは日本に対して充分すぎる程の抑止力を持っていました。
アメリカに攻撃する意図を挫かせる力が、アメリカにはあったわけです。
しかし、日本はそんな抑止力を無視してアメリカに戦争を仕掛けたのです。
つまり、抑止力が「戦争回避」には通用しなかったことを意味します。
政府、自民党は、同等かそれ以上の軍事力をもっていれば、
相手は戦争をしかけてこない、と言っています。
抑止力があれば平和を保てると。
しかし、日本自身がそれとは逆の行動を73年前にとっているという事実は否定できません。
それとも、政府、自民党は、73年前の日本がとった行動を否定するからこそ、
抑止力を絶対的に信頼する道を選んだのでしょうか。
反省した結果の抑止力への絶対的信頼というわけでしょうか。
その辺の真偽のほどは分かりませんが、
歴史的事実から言えることは、軍事力の差異に関係なく戦争は起こりうるということです。
抑止力があることが絶対ではないのです。
政府は抑止力のために集団的自衛権容認を閣議決定したと言っています。
それで平和を保てると。
しかし、さきほどから見ているとおり、それで戦争が絶対に回避できるわけではありません。
戦争が始まる原因は様々です。国でも、地域でも、状況でもまったく違うものです。
抑止力をもつことを集中するばかりに、他のことをなおざりにして、
その結果戦争の種を植え付けてしまうことも充分考えられます。
そもそも抑止力を持つと宣言する日本が想定する相手=抑止力を行使する相手は中国でしょう。
それは世界の誰がみても明らかなことでしょう。
仮に「違う」と言っても中国自身はそれをすんなり受け入れるわけがない。
(実際に中国は集団的自衛権容認の閣議決定に抗議をしています)
抑止力を持つことを実行するその行動自体が、中国に対して「お前が仮想敵国だ」といっているに等しいわけです。
政府、自民党が絶対的信頼を寄せる抑止力をもつことが、
中国との敵対関係をセットすることになるのです。
その事実が将来的な戦争の種になっても僕には何ら不思議ではありません。
平和を保つ(らしい)抑止力をもつことで、中国を‘敵国’に指定する。
そんな笑い話のようなことを政府、自民党は実行しているのです。
太平洋戦争開始時の日本のように、(アメリカにとって)抑止力が働いている状況であっても、戦争を起こす国はあります。
そこには様々な理由があるはずです。
抑止力という一点突破を試みる政府、自民党に胡散臭さを感じるのはこの部分があるからです。
抑止力をもつために、他の戦争への種を植えているように思えてなりません。
政府、自民党集団的自衛権容認に対して僕が反対する理由の一つです。