「戦争」を別の言葉で


前橋市は、昭和20年8月5日に空襲を受けました。
敗戦の10日前です。
B29爆撃機が92機、無差別絨毯爆撃を行いました。
前橋中心市街地の80%、600名近い方が亡くなりました。


本日、「前橋空襲69周年企画」に行ってきました。
様々な写真や資料、軍服などが展示されていました。
メインは前橋空襲を体験された方の体験談です。
1人30分で3人の方が語られました。空襲当時、6〜14歳の方3人でした。


主催は、「前橋に‘平和資料館’設立をめざす会」というところで、
前橋市にいくつかある「九条の会」の方々が運営されている会のようです。
その名の通り、前橋市に平和資料館を作ろう、と活動されているのでしょう。
その一環として、今回初めて開催したイベントがこの企画展です。
ちなみに後援は、前橋市朝日新聞前橋、毎日新聞前橋、東京新聞前橋、上毛新聞です。
ある新聞社名、ない新聞社名。見事に‘色’が出ていますね。
前橋市の名がある」と軽く喜んでしまうのは社会の不幸を意味するのでしょうか。


それぞれの方の体験談は、当然それぞれの風景を持ったもので、
とても勉強になりました。
「戦争」と一言で言ってしまえば、一つの形ができます。
しかし実際は、100人いれば100の形をもつ「戦争」があるはずです。
場所が少し違うだけで全く違う「戦争」になることもあり得ます。
年齢でも、性別でも、「戦争」を個別のものにする要素は数多くあります。
個別の「戦争」を知る、せめてその存在を知ることは、
戦争へ向かうこと、戦争を始めること、戦争を継続すること、戦争を終わらせることなど、
「戦争」を動的なものとして捉えることに必要なことだと思います。
「戦争」はそこに勝手にあり、誰かが勝手に始め、そして勝手に終わるといった、静的なものではありません。
その時々の入力によって出力が決定されるという、通常の施策と構造的には何ら変わるものではありません。最初から決まった形があるのではなく、状況により形を変えていくものです。その形を変える要素となる入力は、そこに生きる全ての人によります。
エラい人のみによるものではありません。
各々の「戦争」が、日本の「戦争」を作ったのです。


その思いをもっているので、体験談発表後に質問をしました。
「空襲といういわゆる‘戦争’は、太平洋戦争の4年、日中戦争の9年においても、数えるほどで大半は爆弾も落ちてこない‘日常’だったと思います。その状況において、どのような点で戦争を感じられていましたか?」
といった内容でした。
14歳で空襲を体験された方が、
「私は軍国少年でしたので日頃から感じていました。食糧の配給や、お寺の鐘や個人がもつ貴金属の徴用なども戦争を感じさせました。国の締めつけがすごかったので爆弾がない時でも戦争だった」
と語ってくれました。
この言葉は、僕が最近考えていた「戦争とは?」ということに直接関わってくることに興奮を覚えました。


「戦争とは?」などというと大きすぎて手に負えないことは僕にでも即分かります。
そんな時は仮説を立てると意外に発見があります。
「戦争」という言葉を他の言葉で表現することで「戦争とは?」の一片が分かるのではないか、という仮説。
「戦争」は様々な言葉で表現できそうです。
殺戮、不幸、恐怖などは早い段階で出てくるでしょう。
こんな言葉ではどうでしょうか。
「戦争」とは、「国の統制が個人の自由を圧倒的な力で覆うもの」である。
戦争が起きたら、個人というものは押しつぶされ、国が絶対的な力をもつものとなります。
殊に日本ではその傾向が強いでしょう。
その時の巷の言葉は恐らくこんな感じです。「わがまま言わないで国に協力しよう!」
そこでは個人の自由はただのわがままになってしまいます。
そしてそれが当然のこととして思われます。


自民党平成24年4月、野党時代に日本国憲法草案を作成しました。
それを作成した中心人物である船田元氏は、「自民党憲法案の第十二条などに‘公共及び公の秩序に反してはならない’という文言があるが、なぜこの文言をいれるのか?」といった質問に対し、このような内容を回答しました。
「公の秩序という概念は、自由がやや濫用されてきたから、その調整として必要」と。
要は、個人の自由が濫用されすぎたのが戦後なので、それを調整するために国の統制力で調整しなくてはならないから、ということです。
個人が強すぎるから国がそれを統制しなくてはならない。
まさにこれは先ほど提案した「戦争」ではないですか。
これをもって自民党が戦争をしたがっている、という極めて直線的なことを言うつもりはありません。(集団的自衛権容認を閣議決定した安倍内閣であっても戦争をしたがっている人は誰ひとりいないと信じています)
ただ、彼ら自民党が、「個人<国」という図式を希求していることはとてもよくわかります。
欲望している、という表現でもいいかもしれない。とにかく欲しがっている。
彼らは「戦争」状態を心地よいと思っているのです。
それを実現するための自民党憲法草案なのです。
事実、自民党憲法草案には、第九十九条として以下の条項があります。

(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。


緊急事態という言葉ではありますが、まさに「個人<国」=「戦争」の図式そのまま!
彼らは国民を統制することを欲望しているのです。
それを実現するために最適な状態が「戦争」なのです。
現在の自民党が「戦争」と親和性が高いとするなら、「戦争」をしたがっているから、
ではなく、「戦争」状態を欲望しているから、と言った方が正確なのだと僕は思います。


爆弾が落ちてくる、生命が危険に晒されるだけが「戦争」ではなく、
個人の自由が大幅に抑制される、国に行動を管理されることもまた「戦争」なのだ、
と範囲を広げることで、「戦争」の本質に近づくとともに、「戦争」を拒絶する人の数を増やすことにも繋がるものと僕は考えます。
定義を変えるだけで、その範囲も変わります。
あくまで仮説ではありますが、前橋空襲体験者の方の話はそのハリボテに少なからず強度を加えてくれたように思います。



会場をあとにする直前、ドアのところで赤旗の記者の方に取材されました(笑)。