それでも社会は続く


東京新聞に「本音のコラム」というコーナーがあります。
曜日替わりで執筆者がかわります。
日曜日の執筆者は法政大学教授の山口二郎さんです。
3月まで北海道大学教授で、4月から法政大学に移ったようです。


7月27日のコラムは秀逸でした。
全文引用します。

NHKが、戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」というシリーズを放送している。今月はEテレで「知の巨人たち」と題し、十二日は鶴見俊輔氏、十九日は丸山真男氏を特集した。いずれも現在の政治を考えるうえでも、極めて教訓に富んだ番組だった。
 鶴見、丸山両氏はともに、60年安保で民主主義を守る運動を理論的に支えた。敗戦の記憶も生々しい1960年、当時の市民は平和を守るために街頭に出て自らの思いを社会に向かって主張する方法を体得した。それがデモである。
 安保条約の承認自体は国会の多数で決まる。その意味で、市民の反対運動は敗北する運命にあった。しかし、国会を数十万人の市民が囲んで抗議の声を上げたことで、岸信介首相は退陣に追い込まれ、以後の自民党政権憲法改正を事実上断念した。
 法律や条約は国会の多数派が決めることだから、国会の外で市民が何をしても無駄だと当時の人々が諦めていたならば、岸政権が倒れることもなかったろうし、その後憲法九条は改正されていたかもしれない。
 負けるとわかっていても、数十万の市民が権力の暴走に対しておかしいと声を上げたことによって、戦後日本の歴史は変わったのである。今もまた、勝ち負けとは関係なしに、声を上げるときである。


「安保条約の承認自体は国会の多数で決まる。その意味で、市民の反対運動は敗北する運命にあった。」
この言葉は現在にも通じます。
安倍内閣集団的自衛権容認の閣議決定の流れで法整備にかかるでしょう。
報道では、来年4月の国会で提出するそうです。15本くらいの法律が必要になるようです。
安倍内閣が国会審議にどれくらい時間をかけようとしているのか分かりません。
野党としっかり議論をするのか、聴いてるふりして全く聞かずにとりあえずのアリバイ工作をするのか。
どんな方法を取るのか分かりませんが、一つ確実に言えることは、
何があっても安倍内閣は関連法案を全て通そうとするでしょう。
そしてそれは成功することでしょう。
なぜなら、山口さんの言葉通り、関連法案は国会の多数で決まるからです。
安倍氏が首相でいる限り、関連法案を通すことは可能です。
その‘ゴール’は誰もが見えているはずです。目を逸らすか否かは別として。
そんな現実において、集団的自衛権関連法案に反対の意見を持つ人はどのような対応ができるでしょうか。


一つは、関連法案が国会に提出されるといわれる来年4月までに、
安倍内閣の政策に対する批判を表明し続け、内閣支持率を下げるよう努力することです。
ブログでも、会話でも、雑誌投稿でも、ツイッターでも、
他人を巻き込んで安倍内閣批判をし続けることです。
ほんの針の一刺しかもしれませんが、その一刺しがいくつも、いくつも集まれば、
大きな穴になることも当然ありえます。そんな実効性を求めて運動を起こすことはできることの一つでしょう。


もう一つは、法案成立を‘ゴール’とせず、社会の流れの中の一つの出来事として捉え、断絶させないことです。法案が成立しようが、しまいが、その後も変わらず社会は継続します。そこで終わりになるわけではありません。社会は続く。
安倍内閣は法案を通すから反対しない」ではなく、「安倍内閣は法案を通すから反対する」のです。なぜなら、法案成立後も社会は続くからです。
社会は勝手に誰かが創るものではありません。その都度その都度の状況にあわせて変化していくものです。
先日、池上彰さんがニュース解説をする番組を見ていました。戦後〜2000年代の大きなトピックを解説するのがメインでした。それを見ていてつくづく感じたことは、社会は出来事のカウンターで形作られていくものなんだな、ということでした。例えば、阪神淡路大震災の際に全国から救助に来た消防のホースの型が違うことで消火活動が遅れたことを踏まえ、その後ホースの方が全国共通になったそうです。阪神淡路大震災という出来事によって変化した社会の一部です。
社会は出来事によって形作られていく。どんな出来事も‘ゴール’などではなく、全ての出来事が社会に大小の違いこそあれ影響を与えていく。
安倍内閣集団的自衛権の関連法案を通すことも出来事の一つですが、
それに反対する人たちの反対行動もまた出来事の一つです。
そのいずれもが、その後の社会を形作っていく要素になります。
‘ゴール’を設定した勝ち負けという観点では、集団的自衛権容認に反対することは無意味なことです。必敗なことですから。
しかし、その後も続く社会の形成という観点では、集団的自衛権容認に反対することは極めて有用なことです。法案成立後の社会に影響を与えることですから。勝ち負けなどそこにはありません。


なぜ先の大戦下において、日本国民は政治や軍部に従ったのか、なぜ協力したのか、
ということは一生をかけて考えていくであろう僕のテーマです。
様々な理由があるだろう中で一つ思うことは、
国民が勝ち馬に乗ったからではないか、ということです。
「どうせ軍部に逆らっても無駄だから、反対なんかせずに従っちゃおう。そっちの方が気分も楽だ。反対し続けるのはしんどい」
という俗っ気満載の気分を多くの人が共有していたのではないかと想像します。
その根本を想像すると、「戦争をやるか、どうか」を‘ゴール’に設定していたのではないでしょうか。それに対して、反対し続けるのもしんどい、だから賛成してしまえと。
‘ゴール’という明確な白か黒を判定するタイミングを設定することで、
それに対しての動きが起こることは自然なことです。
そして、これまた自然なことに、自分は勝ちの側にいたいと思います。
負けを分かりながらそちら側にい続けることは、強い精神力を必要とします。
それに耐えられない人は勝ち馬に乗ることで、精神を解放することを選ぶでしょう。
僕もそれは理解できます。
理解できるからこそ、その状態に自分を置かない方法を考えます。
‘ゴール’を設定しないこと。それが僕が考える‘負ける側’にいながら反対し続ける方法です。
戦争をやる、やらない。戦争に勝つ、負ける。
そんな‘ゴール’を設定しなかった人が、先の大戦中にあっても反戦を言い続けた人だったのではないかと、僕は想像します。
戦争をやろうと、やりまいと、その後の社会も必ず続く。
その意識にあって、はじめて自分の意思の効果を信じることができたのではないでしょうか。


安倍内閣集団的自衛権の関連法案を成立させることで何かが終わるわけではありません。
それが‘ゴール’などではありません。そんなものはない。
それでも僕たちの社会は続いていきます。
社会はそこで起こっている全てのものを貪欲に飲み込んで形を作っていきます。
僕は集団的自衛権の関連法案への反対行動を社会に飲み込ませます。
そのために、法案成立を‘ゴール’と設定せずに、自分の意思のもと反対行動をし続けます。


冒頭に引用した山口さんの言葉の数々が見据える社会のに僕も参画したいと思います。