当事者を失って、、


先日、靖国神社に関する勉強会に行ってきました。
教会の牧師さんが主宰する靖国神社に関する会によるものでした。
靖国神社入門」と題された勉強会、僕が一番興味をもったことは、
キリスト教から見る靖国神社について’でした。
20世紀の中国、韓国外交の中心とも言える‘靖国問題’としての観点は当然ながら、
なんと言っても宗教という観点はなかなか他では聞くことができないだろうなあ、という期待。
結果から言えば、文字通り入門編で、それほど突っ込んだ話にはなりませんでした。
よって、キリスト教から見た靖国神社に関して詳細な話はありませんでした。
その中でも、靖国神社法案(1969年より幾度も自民党から国会へ提出されたが全て廃案)による、靖国神社国家護持については言及していました。
そもそもそれがきっかけで今回の勉強会を主催した会が発足したそうで、
キリスト教徒にとっても大きなポイントとのことでした。
キリスト教徒がみるこの法案の危険性は、靖国神社が国家護持となれば、神道が国教となり、キリスト教をはじめ他宗教が迫害、異端視される可能性が極めて高いという点にあるようです。
それは日本の宗教に対する歴史を見れば極端な話でもないものと僕は感じました。
戦前の‘異端’に対する仕打ちは、そう扱われた人たちからすれば、いつまでも生々しく残っていることは容易に想像できます。
靖国神社に対して自分たちの存在を関連付けて考えている人たちがいる、ということを感じられたことだけでも僕にとって有意義な勉強会だったと言えます。


また、靖国神社について極めて基本的なことを改めて認識できたことも良かったです。
すなわち、靖国神社は明治時代以後の天皇制を支えるための神社であった、と。
極めて明確な意味をもって創られた神社であり、その言葉が意味する通り‘人工的’なものである、という基本はとても大切だと感じました。
唯一無二の最高格の神社のように振舞わされていますが、たかだか約150年前に設立された神社です。さらに戦後の劇的に変わった天皇制の元では「天皇制を支えるための神社」という役割も宙ぶらりんになっている感もあります。
1975年以後、天皇が参拝されていない、という事実もその宙ぶらりん感を助長しています。
靖国神社のことを考える際に念頭に置きたいと思います。


戦没者遺族会のことも話に出てきました。
僕は勉強不足でその役割など詳細は分からないのですが、
漠然と思ったことは、「近い将来戦没者遺族会も機能しなくなるのではないか」
ということです。
恐らく会としては残っていくのだろうと思いますが、
中身は変わらざるを得ません。
その理由は、戦没者に対する直接の(接触があった)遺族がいなくなるからです。
将来の戦没者遺族会を運営していく人は、戦没者に対する間接的な遺族になるからです。
「身体的な遺族」から、「観念的な遺族」へのバトンタッチ。
戦没者の肌触りを知らない遺族に運営される会は、恐らく先鋭化すると思います。
観念は暴走します。全身全霊をかけて暴走します。
それは、韓国の従軍慰安婦の方々にも言えることです。
その方々も高齢で、そう遠くない将来にこの世を去るものだと思います。
そうなったら愈々いわゆる従軍慰安婦問題を解決することは困難になるものだと僕は思います。
従軍慰安婦の方々がいなくなれば解決、となるわけありません。
解決が困難な問題として存在し続けます。
なぜ解決が困難かといえば、この問題自体の当事者ではない人が解決に当たらなければならないからです。つまりは、観念によって従軍慰安婦問題が扱われるようになる、ということです。
現在生存する従軍慰安婦の方々にとって極めて身体的な問題です。
自分自身の問題です。自分が納得すれば他の誰がなんと言おうと解決できるわけです。
しかし、その方々が亡くなった後、この問題を引き継いだ人間はどのようにして解決することができるのか僕には想像できません。
「OKです」と判断することができる人は存在するのでしょうか。
従軍慰安婦の方々のことを考えたらこれで解決などと言えない」という観念的な言説がその時点で支配的になる風景をどうしても想像してしまいます。
戦没者遺族会同様、先鋭化した形になったとき、その解決は今とは比べようもないくらい困難になるのではないでしょうか。
当事者がいなくなった後、僕たちはどのように対処すればいいのでしょうか。
僕にその答えがあるはずもないのですが、早急に考えなければならない案件だと強く感じます。



有意義な勉強会でした。