仮説:議会におけるヤジについて

東京都議会におけるヤジが話題になっていますね。
内容も、その後の対応も、まあ、ロクでもないものです。
「早く結婚した方がいいんじゃないか」とヤジった鈴木章浩氏は、
20日(金)には

「私ではない。寝耳に水でびっくりした」
http://mainichi.jp/select/news/20140623k0000e040239000c.html
毎日新聞 6/20(金)

とおっしゃっていましたが、本日23日(月)になって、

「会派内の聞き取り調査で吉原修幹事長の質問に発言を伝えなかった点について「うそをついたということか」と聞かれると、「そうです」と認めた。」
http://mainichi.jp/select/news/20140624k0000m040079000c.html
毎日新聞 6/23(月)

と語ったようです。
無防備にウソをつきましたねえ。
このノーガードっぷりに可愛らしさも感じないこともないですが、
頭の悪さは否応無しに感じてしまいます。
「品がない」とか、「セクハラだ」とか、様々な面で政治家として(人として)
いかがなものかなのですが、「知性がない」ことは致命的です。
3日後に「すみません、ウソついてました」と自分が言う状況がくることを想像できない人間に、例えば5年後の都政における制度設計ができるのでしょうか。
報道見ているだけの僕でも、「ヤジった人はすぐ分かるんだろうな」と分かりました。
カメラでも撮られているし、音の方向もわかるし、何よりヤジった本人、その周辺の複数の人間が事実を知っているのですから。
3日後の状況を想像できない人間に5年後のことは任せられません。
政治家とは、年単位の時間軸を基本とする人たちのことです。
(日本の首相にも誰か教えてやってください)


こんなことを書きたかったのではありませでした(笑)。
議会におけるヤジについて思ったことを書きたかったのです。


内田樹さんと高橋源一郎さんの対談集『沈む日本を愛せますか?』という本が、文春文庫より先日発行されました。
ロッキングオン社の季刊誌『SIGHT』という雑誌で連載されている対談をまとめたものです。
その中で「日本語」について話している部分が非常に興味深いものでした。

高橋「宇多田ヒカルが(中略)『MTVアンプラグド』にメッセージを寄せてるんです。英語でね。それがすっごくかっこいい、シリアスな内容なんだよ。(中略)こう書いているんです。「英語だとシリアスに言えるんだけど、日本語だとおちゃらけるんだよね」って。(中略)英語だときちんとしゃべれるけど、日本語だときちんとしゃべれない、って。実は僕も、かねがねそう思ってたわけ。(中略)
オバマの演説集が売れたでしょ。オバマの演説をきいて、ある意味、かっこよすぎると思った。あれを日本人の政治家がやっても、絶対サマになんないっていうか、嘘だっていうか、きくに堪えないな、って思ったんです。つまり、政治の言葉って公の言葉ですよね。でも、我々に使えるような「公の言葉」としての政治の言葉があるのだろうかって、昔から思ってた。ただ、それは政治の側に問題があるって僕は思ってたんだけど、実は、日本語が悪いんじゃないかっていう気がしてきて(笑)」


内田「じゃあ、言語の話していい?(中略)外来語と現地語のハイブリッドの形が残ってるのって、世界でもう日本だけなんだよ。現地語であるところの大和言葉の音の上に漢語をのっけて、1500年間やってきた。(中略)表音文字の方が現地語だから、ずっと伝統的にある音声があって、そこの上に外来の概念がのっかてるわけだよね。音声がもともとあって、そこに外来の文字がのっかっている。後から来た外来の言語を地場のコロキアル(口語的)なものが受け止めている。これが日本語の構造なわけで。さっきいってた、日本語でしゃべるとおちゃらけちゃうっていうのは、日本語は本質的にコロキアルなんで、ロジカルになりようがない。(中略)それでは理念は語れないというか、ある程度以上複雑な論理は語れない。たとえば、オバマさんが英語でしゃべったみたいなことを、そのまま日本語でいったっていいんだけども、なんの説得力も持たない。まったくソウルに触れてこないと思う。


『沈む日本を愛せますか?』文春文庫 P28〜29


日本語の特性についてのお二人の説についての箇所です。
まとめると、「日本語では理念や複雑な論理は語れない。仮に語っても説得力が欠け、ソウルに触れてこない。日本語の本質はコロキアルなものである。」ということになりますでしょうか。
これをふまえて「議会での言葉」を考えてみると、
そこにある言葉は見事に日本語が苦手とする言葉であると言えます。


1、議会での言葉は、理念や論理を語るべきものである。
2、議会での言葉は、官僚や役人が作った文語である。


このような特徴を考えると、見事に「説得力に欠け、ソウルに触れてこない」わけです。
それを一言で表せば「ウソっぽい」です。
議会の言葉はウソっぽいのです。
そう感じませんか?
構造的に日本人には響かない仕様になっているのだからしょうがない。
さらに、そこで繰り広げられる言葉は、事前にすり合わせが行われた出来レースのもと生み出されたものであるということも、皆知っています。
何重にも「ウソっぽい」の衣をかぶらされている不幸な言葉。
日本語でありつつ、そういう場なのですから、しょうがないですね。
「官僚、役人が作った文語」と「事前のすり合わせ」はいかようにも改善できると思いますが。
議会はそんな白々しさで溢れるウソっぽい場所として認識されているのではないでしょうか。
そこにヤジが登場するわけです。
結論から言えば、ヤジはウソっぽい議会に真実味を与えようとする、議会への信頼を増すことを願った言葉なのである、ということです。
ヤジの特徴は、


1、非論理的
2、単純
3、口語
4、瞬発性


です。見事に議会での言葉の逆ですね。
議員も議会での言葉がウソっぽいことは百も承知なのでしょうね。
だからこそ、その言葉とは逆の要素をもつ言葉を議会出席者は欲しているのではないでしょうか。
それがヤジであると。
彼らは議会が
「活発な意見交換がされてる場所ですよ!」
という‘真っ当さ’を繕うものとしてヤジを使っているのです。
政治家がいう「ヤジは議会の華」という言葉は、このことを言い換えているのではないでしょうか。


あくまで仮説です(笑)。
「じゃあ日本語を使わない海外は??」と聞かれたら言葉に窮しますから(笑)。



僕は「議会でのヤジは必要だ」とかいっているわけでなく、
「日本語の特性を踏まえた議会」を考えたときに出てくる議会出席者の必死の繕いではないか、ということが言いたいだけです。
鈴木氏もそんな気持ちだったのではないでしょうか。
しかし、如何せん、知性が著しく足らなかった、というだけで。