日本人の歴史の捉えから見る知的怠慢

3月23日に安倍氏アンネ・フランクの家を訪問した、という報道がありました。
オランダ・ハーグで24、25両日に行われる核安全保障サミットの出席にあわせてだったのでしょうが、この訪問には二つの意図があったものと思われます。
一つは、2月頃に発覚した「アンネの日記」関連本の破損事件に対する‘遺憾の意’を表すため。もう一つは、海外諸国からの‘右傾化視’を和らげるため、ではないでしょうか。
訪問について日本の外務省はこのような発表をしています。

安倍総理大臣のアンネ・フランクの家訪問


1. 23日、オランダを訪問中の安倍晋三内閣総理大臣は、「アンネ・フランクの家」を訪問し、レオポルド館長と懇談しました。


2. レオポルド館長より、現職の総理として初めてとなる安倍総理の訪問に歓迎の意を述べるとともに、今回の訪問が、日本とアンネ・フランクの家との長きにわたる関係を強固にする旨述べました。また、「アンネの日記」破損事件にはショックを受けたが、日本の関係者が速やかに対応し、解決に向かっていることに感謝している旨述べました。


3. これに対し安倍総理は、「アンネ・フランクの家」が日本の図書館に「アンネ・フランクの家」の図録と模型を寄贈されたことに感謝の意を伝えるとともに、子供の頃にアンネの日記を読み、大変過酷な状況でも決して希望を忘れなかったことに、自分のみならず多くの人が共感を持ったと述べました。さらに、20世紀は、戦争や人権が抑圧された時代だったが、21世紀はそうしたことの起こらない世界にしたい、歴史の事実を謙虚に受け止め次の世代に語り継いでいくことで平和を実現したいと述べました。また、「アンネの日記」破損事件は大変残念であり、二度と起こらないことを願っていると述べました。


(参考)
 アンネ・フランクの家は第二次世界大戦中、アンネ・フランク一家がアウシュビッツ強制収容所に送られるまでの2年間を過ごした隠れ家。2013年の訪問者数は約120万人。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/we/nl/page18_000241.html


この発表によると安倍氏アンネ・フランクの家訪問に対する感想は、


A 子供の頃にアンネの日記を読み、大変過酷な状況でも決して希望を忘れなかったことに、自分のみならず多くの人が共感を持った
B 20世紀は、戦争や人権が抑圧された時代だったが、21世紀はそうしたことの起こらない世界にしたい、歴史の事実を謙虚に受け止め次の世代に語り継いでいくことで平和を実現したい


の二つだったようです。
この二つに対する僕の感想を書くことで、安倍氏のみならず、日本人の歴史に対する態度を考察したいと思います。


まず、Aですが、これは的外れもいいとこだと思います。安倍氏は、「アンネの日記」をイチロー選手の成功譚の如くに考えているのでしょうか。「アンネの日記」は、‘みんなの希望’のために書かれた希望の書ではないでしょう。そのような本からも「私は希望を受け取りました」という‘貪欲なポジティヴ’さを僕は嫌います。?は安倍氏自身に対する僕からの批判でした(笑)。


重要なのはBです。
B 20世紀は、戦争や人権が抑圧された時代だったが、21世紀はそうしたことの起こらない世界にしたい、歴史の事実を謙虚に受け止め次の世代に語り継いでいくことで平和を実現したい
アンネ・フランクの家を訪問することで安倍氏はこのように感じたようです。
それはそれで結構なことだと思います。このようなことが実現できたら、どんなに素晴らしいか。世界の政治はこのことに向かって為されるべきものだと思います。
ただこの結構な感想、アンネ・フランクの家に対してのものとしてはちょっと間延びしていると言いましょうか、薄いもののような気が僕にはします。
守備範囲が広い感想とも表現できますが、簡潔に言えば、アンネ・フランクの家でなくとも対応できる感想である、ということです。
例えば、広島の原爆ドームに対してでも、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に対してでも、ゲルニカ平和博物館に対してでも対応できます。
それらに行って上記のような感想を漏らしてもその場はやり過ごせるのではないでしょうか。
何にでも対応できるということによりこの感想は素晴らしいとも言えるかもしれませんが、
反対に何にでも対応できるということによりロクでもない感想とも言えるかもしれません。
僕は後者の考え方を取ります。
この感想はロクでもない。


ここでイスラエルの新聞ハアレツ紙による「日本においてのアンネの日記の分析」の記事を引用します。

大部分のヨーロッパ人にとっては、アンネ・フランクは、ホロコースト、および人種差別政策の恐ろしさのシンボルとして受け止められている。しかし日本では、事情が異なる。日本での彼女は、戦争被害者のシンボルだ。そして日本人は、自分たちも戦争の被害者だと見なして、アンネに共感している、というのだ。
http://newsphere.jp/world-report/20140208-3/


アンネ・フランクに対するヨーロッパの人と日本人の観点の違いについて書かれています。
とても興味深いですね。
アンネ・フランクに対して、ヨーロッパの人は、ホロコースト、人種差別政策の恐ろしさのシンボルとして受け止め、日本人は戦争被害者のシンボルとして受け止めている、と言っています。
日本人は戦争被害者のシンボルとして受け止めている、という言及に対しては、僕たち日本人は多少なりとも感想を言うことはできます。
ただ、ヨーロッパの人は、ホロコースト、人種差別政策の恐ろしさのシンボルとして受け止めている、という言及に対しては、「そうなのか」と頷く他ありません。
そしてそれはやはり日本人にとっては多少違和感があるもののような気がします。
その違和感の中身をより正確に見るならそれは、
戦争という広範囲はものではなく、ホロコースト、人種差別政策という的が絞られたピンポイントなものに対しての象徴である、
ということではないでしょうか。
ヨーロッパの人にとって、アンネ・フランクにまつわるものは、戦争といった漠然としたものに対したものではなく、ホロコースト、人種差別政策といった明確なものに対した象徴なのです。
そんな輪郭がはっきりしたアンネ・フランクにまつわるものに対して、
安倍氏
20世紀は、戦争や人権が抑圧された時代だったが、21世紀はそうしたことの起こらない世界にしたい、歴史の事実を謙虚に受け止め次の世代に語り継いでいくことで平和を実現したい
といった、汎用性のある感想でもって表現しました。
この明確さと曖昧さの差は何なんでしょうか。
日本人だからヨーロッパの人が持つ印象を理解できない、知らないのは仕方のないことかもしれません。
しかしそれで良いのか?と言えば、良くはないでしょう。
なぜなら、アンネ・フランクはヨーロッパの歴史の中にいる人であり、世界的な教訓を残した人とはいえ、ヨーロッパの人が持つ印象を第一に考慮すべし、と思うからです。
歴史の解釈は何通りもすることができます。
イギリスで起こったことをイギリス人が解釈するのと、ドイツ人が解釈するのでは違ったものになるでしょう。それはフランスでも中国でも日本でも同じです。
その国ごとの考え方、都合、風向きなどで当然それは違ったものになります。
しかしその解釈が違うことと、ご当地イギリス人が持つ解釈を考慮しないことは、
同義ではありません。
イギリス人がもつ解釈を知りつつ、自国の解釈はそれとは違うことを認識することが大切なのです。
それこそ「歴史の事実を謙虚に受け止め」ることなのです。
自分の都合ばかりで歴史を考えても決して謙虚に受け止めることはできません。
それどころか、そんな方法では謙虚からかけ離れてしまうことになるのは目に見えています。相手のことを考えないのですから。
安倍氏の感想からは、「歴史の事実を謙虚に受け止め」ることは不可能です。
ヨーロッパの人のアンネ・フランクに対する印象を完全に無視したものだからです。意識的に無視をしたのではなく、まさかヨーロッパの人の印象と日本人の印象の違いがあるとは思わなかったのでしょうけど。
端的にそれは、知的怠慢です。
アンネ・フランクの家を訪問して「平和を実現しなくてはならない」という、他でも通用しそうなお題目を唱えることは知的怠慢でしかない。
僕はそう思います。
一つは、アンネ・フランクにまつわるものについての知識不足について。
もう一つは、それに伴う他地域の人が同じ出来事に対して違う印象を持つという想像力の欠如において。


しかし、これは安倍氏のみの問題かと言えば、そうとも言えないと僕は思います。
これは恐らく、日本人全体にも言えることではないでしょうか。
安倍氏の感想の肝は、
「個別の対象について調査や考えずに、戦争関連なら何にでも通用する言葉を選択した」
ことにあります。換言すれば、知的負荷をかけずにストックフレーズを使用した、ということです。
いまや日本中にストックフレーズは溢れています。
テレビでもラジオでもネットでも日常会話でも、どこでも手垢のついた言葉が飽きることなく使われています。
どこかで聞いた言葉をあたかも自分の言葉のように話す人に接した時の、
寒々しさがストックフレーズの薄っぺらさを表しています。
その薄っぺらさは、知的怠慢からきています。
自分では考えずに、どこかで聞いた人の言葉をあたかも自分の言葉のように話すことが知的怠慢でなかったらなんであろうか。
恐らく僕たちは本能的に知的怠慢に対して嫌悪しています。
それ自体に、そんな人に対して嫌悪感を抱きます。
その嫌悪感が薄っぺらさという印象に直結するのでしょう。
一度ストックフレーズを使うことを自分に許してしまうと、
意識を変えない限り、その愉悦に浸り続けてしまう恐れがあります。
ストックフレーズを使うことは快楽です。
なぜなら、知的負荷がまったくないのですから。
自分で考えるという、体力も気力も使うことをする必要がないのですから。
恐らく、現在の日本にはその愉悦に浸る人がけっこうな割合でいるのではないでしょうか。
個別の事象について考えることなく、出来合いの言葉で取り繕うとする人たちが。
安倍氏アンネ・フランクの家訪問の感想は、まさにストックフレーズそのものと言える、と僕は思うのです。


歴史において個別の事象について考えるとは、先にも触れたように
当事国においての個別事象への評価、印象を調査、思考し、
自国・自分においてのそれを思考した上で、その違いを認識すること
です。
自分の都合ばかり考えてもそれは考えたことになりません。
相手のことも考えなければ、それは知的怠慢になってしまいます。
そんな知的怠慢が日本に蔓延しているように感じます。
それはストックフレーズが溢れる現状と無縁ではないのではないでしょうか。
「思考を回避する」ということにおいて、全てが共通していることのように思います。