小泉元首相の脱原発発言に思う

小泉元首相の脱原発発言が話題になっています。
最初にそれについての記事を引用します。
8/26(月)毎日新聞の朝刊です。



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風知草:小泉純一郎の「原発ゼロ」=山田孝男
毎日新聞 2013年08月26日 東京朝刊


 脱原発、行って納得、見て確信−−。今月中旬、脱原発のドイツと原発推進フィンランドを視察した小泉純一郎元首相(71)の感想はそれに尽きる。


 三菱重工業東芝日立製作所原発担当幹部とゼネコン幹部、計5人が同行した。道中、ある社の幹部が小泉にささやいた。「あなたは影響力がある。考えを変えて我々の味方になってくれませんか」


 小泉が答えた。
 「オレの今までの人生経験から言うとね、重要な問題ってのは、10人いて3人が賛成すれば、2人は反対で、後の5人は『どっちでもいい』というようなケースが多いんだよ」


 「いま、オレが現役に戻って、態度未定の国会議員を説得するとしてね、『原発は必要』という線でまとめる自信はない。今回いろいろ見て、『原発ゼロ』という方向なら説得できると思ったな。ますますその自信が深まったよ」


 3・11以来、折に触れて脱原発を発信してきた自民党の元首相と、原発護持を求める産業界主流の、さりげなく見えて真剣な探り合いの一幕だった。


 呉越同舟の旅の伏線は4月、経団連企業トップと小泉が参加したシンポジウムにあった。経営者が口々に原発維持を求めた後、小泉が「ダメだ」と一喝、一座がシュンとなった。


 その直後、小泉はフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」見学を思い立つ。自然エネルギー地産地消が進むドイツも見る旅程。原発関連企業に声をかけると反応がよく、原発に対する賛否を超えた視察団が編成された。


 原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場だ。2020年から一部で利用が始まる。


 原発の使用済み核燃料を10万年、「オンカロ」の地中深く保管して毒性を抜くという。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ想像を超えるのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。


 帰国した小泉に感想を聞く機会があった。
 −−どう見ました?
 「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」


 −−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
 「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」


 「戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が」


 「昭和の戦争だって、満州中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」


 「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」


 もとより脱原発の私は小気味よく聞いた。原発護持派は、小泉節といえども受け入れまい。5割の態度未定者にこそ知っていただきたいと思う。(敬称略)(毎週月曜日に掲載)



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小泉氏が首相在任中は原発に対しての見解はどうのようなものだったのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、その間原発廃炉になった、とか、原発の停止を命じたとかはなかったので、「脱原発」という意識はなかったのだろうと思います。


一般的に小泉氏は「原発推進派」と思われているのではないでしょうか。
本人の口から聞いたことはありませんが、疑うことなく一般に受け入れられているような気がします。
それは一重に「構造改革」的であり、「新自由主義」的であり、「成長主義」的である小泉氏の印象が、一般的に想像する「原発推進派」の姿にダブるからだろうと思います。
実際に上記小泉氏の印象のそれぞれが、「原発推進」と符号するのかは疑問な点もありますが(例えば「新自由主義」はその経済合理性優先の考え方から脱原発になるのが自然だと思います)、現在の日本での原発推進派の様相からすると、彼らは‘小泉的なもの’を身に纏っているように感じられます。
その最たる存在が安倍氏です。
そしてその安倍氏は今や疑いなき熱烈な「原発推進派」です。
小泉氏の口からは「私は原発推進派です」という言葉を聞かずとも、
‘ミニ小泉’である安倍氏の眩しい程の「原発推進」熱を浴びていると、
「親分も当然原発推進派なのだろう」となるのは自然なことかもしれません。
かくして、「原発推進派」に強制加入させられていた小泉氏ですが、
その小泉氏が「脱原発」を口にしたわけです。
これは「脱原発派」には一大事件です。
‘敵’の大親分だと思っていた人が、実はこちら側だった!
という小説にしても無理がありそうな展開が実際に起こったのですから。
冒頭に引用した毎日新聞の記事も、その意識があったからこそ、
記事に書かれたのだろうと思います。
「あの小泉氏が脱原発だなんて!」
ネット上では、小泉氏の引っ張り合いのような状況になっています(笑)。


以上が、「小泉氏の脱原発発言」とその話題性の関係についてです。



僕が冒頭引用記事を読んで思ったことは、
「小泉氏はなぜ在任中に脱原発と口にしなかったのか?なぜ今するのか?」
ということでした。
前者の疑問は恐らく単純なことで、小泉氏在任中(2001〜2006年)には原発自体が大きな問題としては認識されていなかったので、「原発推進」「脱原発」を口にする機会がなかった、というのが答えだと思います。
想像してみます。
仮に、小泉氏が在任中に福島第一原子力発電所事故が起きて、
現在のような状況になっていたとしたら、小泉氏は現在主張しているような
脱原発」を口にしたでしょうか。
恐らく「しない」です。
安倍氏とさして変わらぬ態度で「原発は必要です」と言ったのではないでしょうか。僕はそのように想像します。
なぜそのように想像するのか。
それは立場が総理大臣だからです。


総理大臣とは、言わずもがなですが、「政治」のトップです。
それが意味するものは、最優先するものは「政治」だということです。
「政治」とは、各論ではなく総論を頭に据えて行われるものです。
例えば、ある施策が福祉の面では絶対に効果を発揮する状況にあっても、
それが財政面、医療面、外交面などなど、他の分野に多大な損害をもたらすのなら、その施策を実行しないのが「政治」です。
そこには、正義に悖る選択もあるかもしれませんし、
少しであっても浮く分野と沈む分野が発生する不公平もあるかもしれませんし、
取引もあるかもしれません。
方法は様々でしょうが、全体を見渡す「政治」において、
そのトップである総理大臣が、現在の日本において「脱原発」を言えるでしょうか。
僕は「言えない」と思います。
(菅元総理大臣の脱原発からの退陣、そして先鋭化、民主党・野田元総理大臣の脱原発からの鮮やかな原発推進は記憶に新しいのではないでしょうか)
それは
「政治という全体を考慮した時、原発は日本にどうしても必要なものなのですよ。いわば必要悪です」
という言説によるものではありません。
日本が原発ありきの体質になっているから、です。
原発が国の骨組みの一部になっているからです。
戦後の一貫とした原子力行政において、その骨組みは数を増やし、
強度を増してきたのでしょう。
外交としての原発、産業としての原発、経済界としての原発
雇用としての原発、官僚の天下り先としての原発などなど、
原発が至るところの骨組みになっているのが日本の現実なのです。
この現実を目の前にした時、それら全てに配慮しなくてはならない総理大臣という立場において、「脱原発」を言うことはできないのではないでしょうか。
小泉氏といえども例外ではありません。
脱原発発言をした小泉氏でも総理大臣という立場だったら、
脱原発」は言わないでしょうし、言えないでしょう。


それが図らずも先ほどの疑問
「小泉氏はなぜ在任中に脱原発と口にしなかったのか?なぜ今するのか?」
の後者の答えを導き出します。
「なぜ今するのか?」に対して、
「今はできるから」です。
国会議員でも、ましてや総理大臣でもない今の小泉氏にとって、
「政治」に配慮する必要はありません。
国の機構を考えて発言する必要もなければ、
全体の利益を考える必要もありません。
そんな自由な立場だからこそ、小泉氏は脱原発を言えたわけです。
冒頭記事から小泉氏がなぜ脱原発と思い至ったのかを拾ってみます。


フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」見学により、
「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
・「必要は発明の母って言うだろ? 敗戦、石油ショック東日本大震災。ピンチはチャンス。自然を資源にする循環型社会を、日本がつくりゃいい」


記事からは上記2点を確認できます。


至極真っ当な意見だと思います。
一般にも通じる=誰もがそう思うようなことです。
特に廃棄の問題は脱原発における最大の理由の一つではないでしょうか。
小泉氏はこんな至極真っ当な意見から脱原発を発言したわけです。
これは小泉氏が、原発について「安全/危険」という単一の観点から
考えたことによって思い至ったことでしょう。
「安全/危険」という観点のみから考えたら、
原発は誰もが「危険」⇒「脱原発」となるでしょう。
安倍氏ですらそうだと思います。(多分)
小泉氏は、単一の観点から考えることができる立場において、
脱原発に至ったのです。
返す返すですが、総理大臣という立場であったら、
思ったとしても脱原発を表明できなかったでしょう。


僕はこれをもって、
「全体を考慮する‘政治’を念頭に物事を進めなくてはならない総理大臣なのだから、脱原発を表明できないのはしょうがないことです。結果、原発は残ってもしょうがない」
と言いたいわけではありません。
そうではなく、小泉氏の一連の行動、発言から見える、
上記の総理大臣の脱原発表明の困難さと、それを支える日本の機構における原発の強大さを、改めてではありますが確認、想像することで、
脱原発へと向かう道筋を確認がてら再度構築できるのではないだろうか、
ということが言いたいのです。


「安全/危険」という一観点からだと誰もが脱原発に賛成しても、
そこに新たなものが纏わりつくと賛成する人は次々と減って行きます。
電力会社も、官僚も、ゼンコンも、原発関連で雇用されている人も、
観点が追加されるごとに減って行く筆頭候補でしょう。
最終的には、これらから原発を取り除いてもやっていけるような状態を作らなければ永続的な脱原発は困難だと思います。
つまりは、日本の機構から原発を取り除かなくてはならない。
原発がなくても‘喰って行ける’ようにしなくてはいけない。
それのほとんどは、個人の力ではどうすることもできない案件ですが、
それでもそこは認識しておかなければいけないことだと思います。


僕は原発を「百害あって一利無し」レベルのものだと思っています。
安全面も、経済面も、エネルギー面でも、
他のもの方がずっと良いものがあると思います。
なくなった方が良い。
それに向かってどのように歩を進めるのが効果的か。
その答えは僕ごときに分かるはずもないのですが、
小泉氏の脱原発発言、またはそこから考えられることは、
脱原発の道筋を考える道具に成り得る。
そんな風に思いました。