「安全神話」を考えてみると

安全神話」という言葉が日本で広く使われるようになったのは、
2年半前の福島第一原子力発電所の事故後です。
安全神話の上に成り立っていた福島第一原子力発電所原子力行政」
といった使い方をされたのは記憶に新しいです。
もちろん今でも耳にする言葉です。


安全神話」を辞書で調べてみました。


安全神話
確実な証拠や裏付けがないにもかかわらず、絶対に安全だと信じられている事柄。「―が崩壊する」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/8597/m0u/


‘砂上の楼閣’とでもいった感じでしょうか。
横からつついたり、水をかければ崩れてしまうような砂の上に、
原子力行政が成り立っていたことが福島第一発電所事故によって誰の目にも
明らかなになりました。
「事故なんか起こりません」という構えがその中核です。
例えば、黎明期から原子力開発の現場を知るという笠井篤史氏の言葉に、
その構えは端的に表れています。


「事故が起きた時にどうすべきかという研究をしてきた。原研が唯一、安全性の研究をしていた。原発は事故が起きないはずなのに、なぜ事故が起きる研究をするのかと大蔵省(当時)から言われ、予算は削られ、人も付けてくれなかった。国の政策に反対するような研究所はつぶしてしまえと、自民党の人たちにはっきりいわれた」
「焦点:原発再稼働へ蘇る「安全神話」、突貫作業で新規制基準」 ロイター http://jp.reuters.com/article/wtDomesticNews/idJPTYE96704N20130708?pageNumber=4&virtualBrandChannel=0



役所も政治家も自分たちの利益を守るために、
安全神話」を採用している様が目に見えるようです。
大蔵省はお金を出したくなかったのでしょうし、
自民党の政治家は自分たちの政策に反するものが気に喰わなかったのでしょう。
笠井氏が遭遇したような場面が他にもあり、
他の役所も政治家も、同じように自分たちの利益を守るために、
安全神話」を積み重ねていったであろうことは容易に想像できます。
時に現れる「安全神話」を疑問視する邪魔者を排除しながら。
その根底には、彼らにとって
原発が普及した方が利益になる」という社会構造に日本があった、
という事実が当然あります。
逆から見れば、
原発は、多くの政治家、官僚にとって利益になるものとして存在し、
それを基本として彼らは戦後日本の社会構造を形作った、と言えます。


ただその「安全神話」、果たして政治家や官僚だけによって出来上がったのでしょうか。
民間事故調の調査報告書策定に関わった北海道大学公共政策大学院の鈴木一人教授は、「国民を含む原発推進派、反対派。原発立地住民」などもその片棒を担いだと指摘しています。ちょっと長いですが引用します。


原子力ムラでは原子力技術は自分たちが作った技術で、それを使って発電し、金儲けをするので、一度作ったものを「いやこれは実は危険でした」と言えません。今まで「安全だ」と言ってきたものについては、「安全だ」と言い張り続けないといけません。「本当は事故が起こるかもしれないから、もっと安全性を高めていかないといけない」と考えていても、表では「これは安全です」と言わないと原発を受け入れてもらえないですし、「安全です」と言わないと、すべての問題が進まない状態になっていました。
 マスメディアを通じてそうした流れが出てくるわけですが、同時に1970年代に興隆していく反原発運動も、実は安全神話を作る一翼を担っていたと私は理解しています。なぜなら原発をなくすことが目的の運動が原発を推進する側に対抗するとなると、推進派は反対派に対抗する形で原発の安全性を強調せざるをえなくなります。今まで推進派が「安全だ」と言っていたことを、「安全でない」なんて言ってしまったら、「ほれ見たことか」と反対派に付け入られてしまう。だから推進派と反対派の二極対立が、安全神話をさらに強化していった面があったのではないでしょうか。
 もちろん、そこには原発立地地域の住民も関係してきます。住民は原発立地を認める以上、「安全ではないかもしれない」ものを受け入れるわけにはいかないので、「絶対に安全である」という保証を求めて受け入れるという前提条件が付きます。さらに国民全体も「そういうもんなんだろう」と漠然と信頼していく形になっていくわけです。」


「なぜ原発安全神話は生まれたのか」 Business Media 誠
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1206/19/news023.html




安全神話」は私たち国民も加担してできたもの、というわけです。
確かに福島第一原子力発電所の事故前、国民の多くは
原発? 大丈夫でしょ」ということさえ言わない形で、
つまりは、原発に全く関心を示さない形でそれを容認してきたことは否定できません。
その中に私も含まれます。
原発は安全ですか?危険ですか?」とその時質問されれば、
放射能」「核分裂」「プルトニウム」など‘恐い’単語を想像し、
「危険ですね」と答えたかもしれませんが、
実際には「それでも大丈夫でしょ」という構えで、原発で発電される電気、及びそれに基づく生活を私は享受してきました。
これをもって「国民は責任を重く重く受け止めるべきだ!」といった強い口調で迫ることもしたくないし、自分でも背負いきれないくらいの責任を感じるつもりもありません。(そもそもできません)
自縛に繋がる「重い責任」は思考も身体も硬直させます。結果、再びの思考停止、無関心に陥り、再度「安全神話」に加担してしまう恐れがあります。
だから、適度な責任の感じ方として、私は「安全神話」について考え続けることをしたいと思っています。
思考を活性化させ、その思考に耐え得る身体が快適な状態を保てるくらいの責任の感じ方でもって。
その成立、強化の一端を担ったものとして、それは当然にして、「安全神話が甦らないように」という意思のもとに、です。



そんな想いで福島第一発電所事故後、「安全神話」について考えてきましたが、
最近思うようになったことがあります。それは
原子力規制委員会は、安全神話を作り出す組織ではないか?」
ということです。


原子力規制委員会は、事故後の2012年9月に創設された組織です。
組織理念としてホームページに、


原子力規制委員会は、 2011年3月11日に発生した東京電力福島原子力発電所事故の教訓に学び、二度とこのような事故を起こさないために、そして、我が国の原子力規制組織に対する国内外の信頼回復を図り、国民の安全を最優先に、原子力の安全管理を立て直し、真の安全文化を確立すべく、設置された。
原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。
我々は、これを自覚し、たゆまず努力することを誓う。」


とあります。
原子力規制委員会ホームページ内 http://www.nsr.go.jp/nra/idea.html


具体的な業務は、様々ありますが報道などで度々目にするのは、
原発の安全審査」
です。
原子力規制委員会の安全基準をクリアできなければ、
原発を稼働することはできません。
8月から安全審査がはじまり、約半年をかけて結論を出すようです。
その基準が厳しいのか、緩いのか私にはよくわかりません。
なにも「原子力規制委員会は電力会社や官僚、政治家とグルなんだ」という思いから、
原子力規制委員会は、安全神話を作り出す組織ではないか?」
と思っているわけではありません。
私は原子力規制委員会を本気で原発の安全性を考えている組織だと思っています。
ただ、例え極めて厳しい基準をもっていたとしても、真面目な組織であっても、
私は原子力規制委員を「安全神話」製造組織、と思うのです。


それはこのような理由からです。


安全神話」の意味を再度確認したいと思います。


安全神話
確実な証拠や裏付けがないにもかかわらず、絶対に安全だと信じられている事柄。「―が崩壊する」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/8597/m0u/


このような辞書的な意味からすれば、
原子力規制委員会は上記の「確実な証拠や裏付けがないにもかかわらず」を払拭してくれる組織なので、「安全神話」を否定、阻止する存在と考えることができます。
しかし、現在私たちが認識する「安全神話」を否定することとは、辞書的な意味におさまるものでしょうか?
原発に関する「安全神話」の否定とは、「確実な証拠や裏付けがないにもかかわらず」を払拭することで達成できるものなのでしょうか?
私はそうは思いません。
現在私たちが認識、共有している「安全神話」の否定とは、
さらに踏み込んだものになっていると思います。
それを言葉で表すなら
安全神話の否定とは、想定できるどんな手当をしても事故は必ず起こるものだ、と認識すること」
といった形くらいに辞書的意味を飛び越えたものではないでしょうか。
ここまでくると、手当て具合を審査する原子力規制委員会とは、
結局は「安全神話」を継続させるものと思えてしまうのです。
いくら手当てが上手で、想定しうる安全性を確認できても、
それでもNOと言うことが、「安全神話」を否定することと言えます。
事故は必ず起こるものという認識=「安全神話」の否定なのですから。


安全神話」を否定することが、福島第一原子力発電所事故後の(建前であっても)日本の態度ではなかったでしょうか。
それに則るなら、「この条件さえクリアすれば稼働OK」という組織は、
その基準がいくら厳しいものであっても、日本の基本態度に反したものであると結論付つけざるを得ません。
安全神話」の否定を真摯に受け止める態度とは、いくら安全だと思っても事故は必ず起こるものだという態度に他なりません。
つまりは、「これだけの基準を満たしていれば安全です。再稼働OKです」という態度、それを良しとする方法自体が、「安全神話」そのものなのです。
原子力規制委員会がいくら原子力に対する知識があり、「絶対に事故を起こさない!」と決意みなぎる不純物0の道徳心を持っていようが、
「この基準を満たせばOKですよ」という方法を採用している限り、
安全神話」製造委員会であることから免れることはできません。
決して、「原子力規制委員会が邪悪だから」と言っているわけではありません。
そもそもの業務自体が、「安全神話」を復活、継続させる役割を担ってしまっている、
と言っているだけです。


では、現在の日本において、「安全神話」を否定することは、
具体的にどのような行動なのでしょうか。
再度実際に即した「安全神話」の否定の意味を確認します。


安全神話の否定とは、想定できるどんな手当をしても事故は必ず起こるものだ、と認識すること」


どんな手当てをしても必ず事故は起こる、という認識からしか、
安全神話」の否定は始まりません。
その認識から見えてくる具体的な行動は、
「起こった事故を最小限の被害で食い止めること」
です。
必ず起こるものに対して、それを防ぐことのみに力を注ぐことは
あまり頭の良い方法とは言えません。
それも必要ですが、それよりも起こった後のことに力を注ぐべきです。
「起こった事故を最小限の被害で食い止めること」
こそ、「安全神話」の否定なのではないでしょうか。
それに対する技術、人員などを配備し、
原発事故が起きてもすぐに収束させること。
それをもって、現在私たちが認識する「安全神話」の否定は完遂できるものと
私は思います。


安全神話」の否定を態度としてもつ(はずの)日本国、
そしてその下部に位置する原子力規制委員会は、
安全審査ではなく、起こった事故を素早く収束させることを最重要視すべきなのです。
仮にそれができるようになった段階で初めて原発の再稼働は許されるのではないでしょうか。
現状の福島第一原子力発電所をみると、とても事故収束に向かっているとは思えません。それに対する東電、日本政府の能力の欠如は誰の目にも明らかでしょう。仮に東電ではなく、他の電力会社でも同じことでしょう。
つまり、現在の日本には、原発事故を素早く収束させることができる
技術も、人も、組織もない、ということです。
それでは「安全神話」の否定は完遂することはできません。
そのような状態で、「安全審査を通りました」で再稼働という運びになったら、
それは「安全神話」の復活そのものです。
繰り返しますが、「現状100%の手当てをしても事故は起こるもの(「想定外」があるものです)」で、「現状100%の手当てをすれば大丈夫」(=原子力規制委員会の姿勢)こそが「安全神話」なのです。



以上、見てきた意味で、私は
原子力規制委員会安全神話製造組織だ」
と考えます。
必ず起こる事故を素早く処理することができるようになって、
初めて「安全神話」の否定を完遂することができるのです。
そして、それは原発を稼働させる最低限の条件であるべきものなのです。
その意味において、現在の日本には原発を稼働させる資格は、ありません。