ジブリ小冊子「熱風」

改憲 もってのほか」 宮崎駿監督 いま声を大に


憲法を変えるなどもってのほか」。スタジオジブリ(東京都小金井市)が、毎月発行している無料の小冊子「熱風」の最新号で「憲法改正」を特集し、宮崎駿監督(72)が寄せた記事が話題を呼んでいる。全国の書店では品切れが続出。ジブリ出版部は反響の大きさから、「参院選の投票日(二十一日)前に読んでほしい」と十八日、急きょジブリ公式ページで公開を始めた。 (樋口薫)


 熱風は「スタジオジブリの好奇心」が副題で、毎月趣向を凝らした特集を組む。過去には「デモ」「グローバル企業とタックスヘイブン租税回避地)」など、社会的なテーマも扱ってきた。


 編集長の額田久徳さん(50)によると、今回の特集を発案したのはプロデューサーの鈴木敏夫さん(64)。意見の分かれるテーマだけにためらいもあったが、参院選を前に「ジブリとしての旗色を鮮明にしよう」と腹を決めた。


 執筆もジブリの重鎮に依頼。宮崎監督に加え、高畑勲監督(77)が「60年の平和の大きさ」と題して寄稿。本紙に五月、掲載された鈴木さんのインタビューも、「9条世界に伝えよう」として収録された。いずれも憲法九条や改憲手続きを定めた九六条の改憲に反対する内容だ。


 宮崎監督は談話形式の記事で「選挙をやれば得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほかです」と明言。また、日本の戦争責任や産業構造の問題点などについても率直に語っている。


 十日から全国の書店で配布した約五千部はあっという間になくなった。出版部にも「読みたい」と電話が殺到するなど、過去最高の反響という。「憲法を守るための最大の敵は国民の無関心。興味を持ってもらえたのがうれしい」と額田さん。


 二十日に公開される宮崎監督の最新作「風立ちぬ」は、ゼロ戦の設計士が主人公で、戦前が舞台。戦争の直接的な描写はないが、平和について考えさせられる内容も含んでいる。「たくさん考えて投票に臨んでほしい」。それがジブリの願いだ。


東京新聞 7月19日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013071902000113.html


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スタジオジブリホームページ
http://www.ghibli.jp/10info/009354.html


ここから上記引用中にある小冊子「熱風」のPDFを無料でダウンロードできます。(8/20まで)


東京新聞に出たのが7/19(金)でした。
参議院選投票日の2日前で、最新作『風立ちぬ』の公開1日前でした。
「映画の宣伝か」と言えば、そんなに単純なことではないのがすぐに分かります。
なにせ、引用記事にあるとおり、テーマが「改憲もってのほか」ですから。
改憲をしたがっている党が選挙で圧倒的有利を伝えられている中で、
それとは反対のことを主張する内容が映画の宣伝として有効に働くのか、
と考えると「どうだろう?」と思ってしまいます。
事実、ツイッターを見ていたら
宮崎駿は左だ」といった内容のツイートが流れていました。
そう取られることを容易に想像できる状況下での宮崎駿さんの改憲についての発言。
映画の商業的成功を最優先に考えたら恐らくしない方が良い発言だと思います。
宮崎駿は左だ」⇒「『風立ちぬ』もそんな考えの映画だろう」
という思考回路を0.5秒くらいで働かす人も、1,800円を払ってくれる大事なお客様です。
そんな大事なお客様を「改憲もってのほか」で手放す恐れがあるわけですが、
「それでも言わずにはいられなかった」という宮崎さんの想いが痛い程伝わってきます。
それほどに宮崎さんは現状に強い危機感をお持ちなんだろうと思います。
まずは宮崎さんに敬意を表したいと思います。


ダウンロードした冊子を読んでみました。
宮崎さんの「改憲もってのほか」の文章、けっこう長いです。
談話のようですが。
内容は、憲法のことだけでなく、ご自身の戦争体験、父親のこと、自分の日本感、産業構造のこと、仕事場の隣につくった保育園のことなど様々なことについてです。
タイトルが「憲法を変えるなどもってのほか」なので、
憲法を中心としたものですが、上記にあげたような話が出てきます。
それは宮崎さんが、憲法はそれ自体で存在しているものではなく、
様々なものと関係して存在している、と認識していることを意味しているのだと思います。


条文がこうだ、この条文は現代にそぐわない、他国に侮られないために変えなければいけない、
とかの、憲法憲法だけで語る考えとは180度違う意識。
憲法憲法だけで語る考えは、主語を「日本」にする傾向があります。
個人という千差万別の「顔」に文字である条文だけでは耐えられないからです。
日本という1つの主体を想定しないと憲法憲法だけで語ることができません。
日本が攻められないように、日本が侮られないために、日本が強くなるために、日本が良くなるために、、、。
個人はその脇に追いやられます。


宮崎さんの憲法感は、先ほども書きましたが、
憲法は様々なものと関係して存在している
ということが基本のように思います。
そしてその関係するものの多くが、自分だったり、父親だったり、保育園の園児だったりします。個人です。
それは、憲法は個人に関係したものである、という宣言のような気がします。
国の前に、個人に対してまず憲法は存在している。
個人のためのものである。国のものではない。
憲法に関して語る中での個人の話には、宮崎さんのそんな想いが込められているように感じます。
そしてその後は当然こうに続きます。
「個人を苦しめるような憲法改憲は断じて許容できない」



「僕は仕事場の隣に保育園を作ったんですが、これは本当によかった。いちばんよかったのは僕にとってなんです。チビたちぞろぞろ歩いているのを見ると、正気に戻らざるを得ないんです。この子たちがどうやって生きていくのか、と考えたら、それ暗澹たるものだと思うけど、じゃあ、生まれてこなければよかったのかって、そんなことは言えない。やっぱり祝福しなきゃいけないし、実際、祝福できる。だから「なんとかなるよ」と言うしかないんですよ。」


                    「憲法を変えるなどもってのほか」より



暗澹たる思いだけど、祝福できる個人。祝福される個人。
「なんとかなるよ」と思い、行動する個人。
個人の力強さと優しさと生命力と。
園児の姿が宮崎さんを個人に戻し、個人の尊さを強く感じさせるのだろうと思います。
憲法はそんな尊い個人と密接な関係のうちに存在すべき。
だからこそ、その尊さを毀損する恐れのある憲法改憲は許容できないのではないでしょうか。
僕はそんな風に思います。