投票率について


今週末は参議院議員選挙です。
それについて様々な報道がなされていますが、
その一つに投票率についてもあります。
投票率が低いのではないか」というのがその主です。
先日の東京都議会議員選挙の投票率が43.5%、
昨年末の衆議院議員選挙のそれは59.32%でした。
ちなみに衆議院議員選挙の投票率は戦後最低の数字だったそうです。


時事通信の記事で参考になるものを見つけました。


【図解・政治】参院選投票率の推移(2013年7月)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_election-sangiin20130717j-04-w380


この記事は、今回の参議院議員選挙投票率は50%前後を予想しています。


投票率をあげよう」が一応の理由だったと思いますが、
いわゆる‘ネット選挙’が導入されました。
それにより少しでも投票率があがってほしいと思います。


投票率があがってほしい」と特に何も考えずに言っていますが、
なぜに投票率があがってほしいと思っているのか、を考えてみました。
何も疑うことなく高い方が良いとされている投票率ですが、
その数字にどんな意味があるのでしょうか。



1、 投票率は国民参加の象徴


投票率が高い選挙と低い選挙のその後を想像してみます。
両方とも自分の考えとは違った党がより多くの議席を取った選挙とします。
その時、僕はどのように思うのでしょうか。
どちらも共通して、残念と思うことは間違いないと思います。
ただ、その後感じることはちょっと違ったものになると思います。


投票率の高い選挙であったら、
「それだけ多くの人がA党(僕の考えとは逆の党)に入れたのか。残念だけど、しょうがない」
と一定の納得を得ることができるのではないかと思います。


意見、考えが違う人の方が多い結果であっても、
選挙へ行く、政治について考えるという意味では、
変わることはありません。
「我々は日本国民である」と一体感を感じる一つの事柄として、
選挙に行き、政治について考える人が多いことを表す高い投票率
有効なのではないかと思います。


日本は島国でもあり、外国は全て海の向こう側にあります。
その地理的影響の一つに、日本と海外を比較する能力を鈍化させた、
ということがあると思います。
それが意味するところは、「我々は日本人である」といったことを声高に言う機会が少なかったということです。
日本人は日本人を規定する必要性をさほど感じなかったわけです。
言葉を換えれば、日本人は日本人を規定する方法を知らない、とも言えます。
日本に戸籍をもっていれば日本人、日本語を使えば日本人など、
制度として、何となくとしての規定は持っていますが、
実感としての規定を実は持っていないのではないでしょうか。
「我々は日本人だ」と隣の人と肩を組んで味わう実感。
まあ、どこの国にもこんな人はいなそうですが(笑)、
実感としての日本人を感じる、という能力が日本人は低いのではないかと思います。
普段のJリーグは全く盛り上がらないのに、
サッカー日本代表になった途端街にユニフォーム姿の人が湧き出てくるのは、
その実感を求めてなのかと推測しています。


高い投票率は、主義主張は抜きとしての
「我々は日本人」という一体感を感じることができる一つの場面になるではないかと思います。



対して投票率の低い選挙の場合、自分の考えと違う政党が多くの議席を取ったら
「もっとしっかり政治について考えて、投票にいこうよ。何もしないで、ひどい世の中になってもいいの?」
という投票に行かなかった人に対して不満を感じると思います。
そしてその不満は、高い投票率の選挙の際には感じられた
「自分の考えとは違うけど、そんなに多くの人が選んだのならしょうがない」
といった「一定の納得」を阻みます。
半分の有権者しか投票にいっていない選挙に対して、
国民の考えが反映された、とは思うことはできません。
そこには当然一体感など感じることはできません。
逆に、断絶を感じるかもしれません。
それは選挙に行かなかった人との断絶かもしれませんし、
自分の考えとは違う多くの議席を取った党、その支持者との断絶かもしれません。



投票率の高低は、現在を生きる僕には上記のような影響を与えるのかもしれない、と想像します。
次は、次世代の人たちに対してになります。



2、 投票率は未来の人たちへの贈り物である
1よりもこっちの方が大事だと思っています(笑)。
僕は投票率を「未来の人たちへの贈り物」だと思っています。


選挙、それに連なる政治は、決して現在を生きる人のためだけではありません。
憲法や法律、政策などは、それらが施行された時だけではなく、
その後の世代にも影響を与えるものがほとんどです。
その時生まれていない人にも影響を与えるものもあるでしょう。
ことに憲法はどの性格が最も強いと思います。


日本の原発行政の始まりをどこに置くかは緒論あるでしょうが、
例えば原子力委員会設置をそれとします。
その設置は1956年です。今から57年前です。
その時に動き出した原発行政によって日本には54基もの原発が生まれました。
その一つが事故を起こし、今も収束の目処がたっていないのは誰もが知るところです。
原発が良い、悪いはここでは論じません。
ただ言いたいことは、57年前にはじまったものが、
現在に大きな影響を与えているということです。


政治はその時に一瞬の利益不利益のみで運営されて良いものでは決してありません。
未来を見通すことはとても難しいし、不可能な部分もあります。
しかし、それに対して一生懸命考えましたよ、
分からないなりに色々検証しましたよ、議論を重ねましたよ、
という姿勢を政治は絶えず持たなければいけないのだと思います。
そして、国民はその政治の姿勢を絶えずチェックしなくてはいけないのだと思うのです。
ちゃんと議論しているのか、未来のことを考えているのか、
おかしな方法、状況で決定されていないのか。
その国民のチェックぶりを示すのが、選挙の投票率なのではないかと思います。
投票率が高ければそのチェック機能は働いている。
低ければそれは劣化している。
未来の人たちと、今を生きる僕たちを繋ぐ一つは、
そのチェック機能においてだと僕は信じています。
「あなたたちに悪い影響がでないように考えて政治をチェックしていますよ。あなたたちに良い影響を与えると思う人に一票いれてきましたよ」
そんな一人一人のチェック機能の積み重ねが投票率の数字に表れます。
未来の人たちがその想いを好意的に受け取ってくれるのは、
投票率が高い時でしょう。
「その時の状況は分からないけど、こんなに多くの人が投票に行って、未来のことを考えてくれたのか」
仮に高投票率でロクでもない党が圧倒的支持を受け、
その結果未来に悪影響を与える法律ができてしまっても、
ロクでもない党に圧倒的支持を与えた多くの国民の劣化した知性に対しては憎むかもしれませんが、投票に行ったこと自体に憎む感情は生まれないのではないかと、想像します。
高い投票率自体は、未来の人にとって好意的に受け入れられるのではないでしょうか。


対して、投票率が低い選挙を未来の人たちがみたらどう思うか。


「私たちのことなんか全く考えてくれなかったのね」


僕はそこに断絶を見ます。
世代間の断絶といったレベルではなく、
「歴史との断絶」という極めて危険なレベルの断絶に踏み込んでしまうかもしれません。過去の世代への不信が、飛び火して歴史への不信に。
歴史を失う民族は不幸です。
そんな不幸な民族に日本人をしてはいけないと僕は考えます。
その種となるかもしれない過去世代への不信は防がねばなりません。
想像力を逞しくしていますが(笑)、
一抹の不安を感じることもまた確かです。


「あなたたちのことを考えたよ」
という想いの証になるものとして、「投票率は未来の人たちへの贈り物」になるのではないか。
僕はそんな風に思います。



以上、2つの理由により、やはり投票率は高い方が良いのだと僕は思います。
今回の参議院議員選挙投票率はどうなるのでしょうか。
現世代間の断絶、未来の世代との断絶。
高い投票率でそれらを回避したいです。


【追記 7/19】
菅原琢 東京大准教授「低投票率、何が問題ですか?」朝日新聞デジタル古田大輔記者とのQ&Aセッションで #投票する?」
http://www.huffingtonpost.jp/2013/07/17/election2013_turnout_n_3615608.html?ncid=edlinkusaolp00000003&just_reloaded=1


という投票率に関する記事がありました。