この前買った本


哲学の自然 (atプラス叢書03)

哲学の自然 (atプラス叢書03)


前々から気になっていた本です。
表紙が柔らかい雰囲気を醸し出していて、いいなあと思っていました。


中沢新一さんは、以前に内田樹さんとの対談本『日本の文脈』を読んで、
「魅力的な人だな」という印象を持っていました。
この本の表紙のように「柔らかい」印象でした。
『アースダイバー』や『野生の科学』など、
何となくタイトルを知っていた本はありましたが、『日本の文脈』が実際に言葉を読んだ始めてのものでした。


一冊本を読んだだけではその人が信用に足るかどうかなど分かるはずもありませんが、僕は中沢さんを信用しています。
それは、中沢さんには文学性がある、からです。
教育テレビで俳句の番組があるのですが、
中沢さんがそれにゲスト出演をされているのを見ました。
当然俳句の話をされるわけですが、
俳句と人類学とを結びつけたりする話はとても面白かったです。
俳句に関する知識も多く、様々な角度から俳句をとらえる姿勢と知性が、
とても好ましく思えました。
好ましく思えたから信用する、というわけではありません。
この場合は俳句ですが、
俳句を含め文学一般に造詣が深い人は限度を知る人だ、
という僕の中での認識によって、中沢さんは信用できる、と思ったのです。


文学とはなんぞや?などと言い出すと、途端に無口になってしまいますが(笑)、
一つの要素として、「文学とは人間を扱うものである」ということが
言えるのではないかと思います。
人間が登場する、と言った意味あいをもう少し突っ込んで、
一人一人の人間の感情、行動、思考が紡がれることによって成り立つものであると思います。
俳句などはその最たるもので、17文字の中に世界がどうだ、とか、
社会がどうだ、とかはありません。あっても良い句ではないと思います(笑)。
17文字の中にあるのは、自然や風景、動物などによってあぶりだされた個人です。
小説でも、詩でも、そこに個人が希薄なものは、
不完全なものと言えます。不出来と言った方がいいでしょうか。
面白い話であっても、それにまつわる個人個人の底が浅いようなものは、
文学の質においてそれほどの評価はされないのではないでしょうか。
少なくとも僕はそうです。


そういう僕にとって、
「文学に造詣が深い人とは個人に対する意識が高い」
ということになります。
個人の意識が高い、というと、個人主義がどうだ、とか個人の権利がどうだ、
とかいう話になりそうですが、そういうことがメインではなく、
単純に、物事の基準を個人に置くことができる、ということです。
言葉を換えれば、個人という微小なものの限度を考慮して物事を考えられる、
ということです。
個人には当然のことながら限度があります。
誰もこれには反対しないと思いますが、
それではそれを常に意識して物事の判断の基準の一つとして自分の中にもっているか、
と聞かれたら、「はい」と答える人は意外と少ないのではないような気がします。
自分のことや半径30cmくらいのことを考える時は、そのことは意識していても、それより大きくなると途端に大きな流れを優先し、個人の限度の優先順位が低くなる傾向は様々な状況で見受けられます。


例えば、それはこういうものにも繋がるかもしれません。
ある大災害が起こった時、
「死者は3人でした」
というニュースを見た時、「ああ、少なくてよかった」と思うか、
「人が亡くなってしまったか」と思うか。
文学に造詣が深い人は、「人が亡くなってしまったか」と思う傾向が強いと僕は思います。
それはその3人のうちに、それぞれ個々の「顔」を見てしまうからです。
もちろん3人の個人的な情報は知りません。
しかし、その3人にはそれぞれ幸せ、悲しみ、喜び、苦しみ、怒り、悩みがあった、ということを深く感じてしまうのです。
それぞれにはそれぞれの人生があった、という当然のことを、
素通りせずに立ち止まって感じてしまうのです。
そこに「顔」を見てしまうのです。


文学の要諦の一つとは、つまりは「顔」を表現するものだと思います。
有名無名、地位が高い高くないなどとは関係なく、
誰にでも「顔」がある。当然その「顔」は、体力的、精神的限度を持つ生身のものです。
そのことを文学は訴え続けています。
いや、それを訴え続けるものを僕は「文学」と呼びたいと思っています。



話を中沢さんに戻すと(笑)、
文学に造詣が深い中沢さんは個人の「顔」を見ることができる人なのだと
僕は感じています。
それは哲学を語る時、今後の社会を語る時、
「こうすれば社会は良くなる(少数の犠牲はしょうがないけどね)」
と語らないことを意味します。
個人の「顔」を意識しての社会設計に話が及ぶことを意味します。
僕は中沢さんをそのような形で信用しています。



対して、國分さんです。
正直この前の小平市住民投票が話題になるまで知りませんでした。
そこで中心的な役割の一人として活動されたようです。
高崎経済大学の准教授をされているそうです。
表紙の顔を見る限り、とても柔らかそうで、語り口も攻撃的でないのだろうなあ、と勝手に想像しています。
名前を知ると、その後至るところで名前を見聞きするので、
すでに注目されている人なのですね。
僕はこの本が初対面なので、楽しみにしています。



原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)


原発関連本で今回買ったのがこの本。
2011年に発売されている本なので、結構前です。
2012年大佛次郎論壇賞を受賞された作品とのことです。
そのまま原発のコストについてが内容になっています。


本屋さんによって、それぞれ特集などが違いますが、
原発本をまとめて置いておいてくれる本屋さんはありがたいです。
僕なぞは、本屋さんで買う本を決める傾向が強いので(特に原発本は)、
まとまっていると比較もしやすいし、色々な本の存在を知ることができて嬉しいです。


原発のコストはとても気になっていました。
「発電コストが他のものに比べて安い」とは言われているけど(そのことがウソであることをこの本は言っています)、
事故が起こったあとのことも考えれば断然高いだろ、
と素人考えで思っていました。
廃炉や補償などなど、それを含めて考えれば、
原発なんかやってられない、と思うけどどうなんだろうと。
それがこの本を買った最大の理由です。
今は少し読んだだけですが、全部読んだ時、どのようなことが分かっているか、楽しみです。



本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 (戦後再発見」双書2)

本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」 (戦後再発見」双書2)


タイトルが「本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」とあります。
まずそれが本当なのか、が気になります。
まんまと宣伝にはまっているわけですが(笑)。


東京新聞に「日米同盟と原発」という連載が掲載されています。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/index.html


これを読んでいると、日本の戦後行政が「アメリカ」を勘定にいれて成されて来たということを感じざるを得ません。
真っ先に思いつくのは、日米安保条約です。
1960年に改訂され、今年で53年。
今でも侵すことのできない金科玉条として存在しています。
これを前提に日本の外交や内政(の一部)が語られることが多いですが、
仮に条約を破棄して‘まっさら’な状態になったら、
日本はどうなるのだろう?? と想像することがあります。
「自衛のため軍備を拡張する」
「核を持たねば」
といった声が充満する短絡的な‘未来’を想像してしまうのですが(笑)、
想像するにも知識が圧倒的に少ないことに気付きもしてしまいます。
なので、まずはこの本で「日米地位協定」とはそもそもなんぞや、
を学んでみたいと思います。