「敬意」と「侮蔑」


「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」というラジオ番組を
毎週聴いています。土曜日の朝8:30〜13:00にTBSラジオで放送されている番組です。
永六輔さんを中心に、アシスタントにTBSアナウンサーの外山恵理さん、
レギュラーにラッキィ池田さん、はぶ三太郎さんがいて、
さらにゲストの方々が来てお話をする番組です。
恐らくおじさん、おばさんが聴取者のメインです(笑)。



僕がこの番組を気に入っている理由は、
この場に「敬意」があるからです。
出演者の方々の永六輔さんへの「敬意」です。
それはもちろん永六輔さんに対して一様に「はは〜」と土下座をする類いのものではなく、(口の悪い人もいますしね笑)
永六輔さんの人柄、仕事、経験、知識等に対して敬う気持ちを、
出演者の方々がみなそれぞれの仕方で表現することによって表すものです。
それらの方々に共通するのは「永六輔さんのことが好きでたまらない」と
いった気持ちです。
毎週ゲストが来ますが、そのタイミングで話題がある人が立ちかわり来るわけではありません。
ほぼ来る人は決まっています。その基準は当然「永六輔さんのことが好きか」です。(だと思います)
全く関係のないゲストはきません。
そういった意味では開かれた番組ではありません。
閉じた番組と言えるでしょう。
ただその中で出来上がる番組は、聴く者にとってまことに心地良いのです。
一切の攻撃性がなく、あるのは信頼できるもの同士が作り出す「敬意」。
僕はその「敬意」が感じたくこの番組を毎週聴いています。



「敬意」は言葉によってのみでは成り立たちません。
表情であったり、態度であったり、口調であったり、物腰であったり、
そういったものが融合する形でやっと成り立つ、時間のかかるものです。
「あなたのことを尊敬しています」といったところで、
その言葉を受けた人はすぐにそれを鵜呑みにすることはできないでしょう。
その言葉にしたうちされた行動や態度を見て、
やっと信じることができるのです。
なので対面する、もしくはたくさん話したり、表現を見たり、聴いたりという手間と時間をかけることでしか、「敬意」を醸成し、創造することはできません。
マハトマ・ガンジーさんの
「良いものはカタツムリのように進むものです」
という言葉は一つの示唆のような気がします。



対して、その対義語「侮蔑」は言葉のみによって成り立ちます。
「バカ」「死ね」と言えばその場で、瞬間的に成り立つものです。
「敬意」に比べ、圧倒的にスピード感があります。
政治の世界でも、経済の世界でも、テクノロジーの世界でも、
‘スピード感’がもてはやされる昨今の状況と、
‘スピード感’溢れる「侮蔑」の関連性を考えてみることは、
実に興味深いものだと思います。



‘スピード感’がもてはやされている現状は、
「敬意」を軽視している、というか、その成立を拒んでいる状況と言えるかもしれません。
‘拙速にすぎる’という言葉は、「敬意を軽視するなよ」という意味も持ち合わせているのではないでしょうか。
その言葉の影が薄くなっている状況においては、
「敬意を軽視するなよ」というその言葉が意味する言葉も当然同様の状況にある可能性が高いと思えます。
「敬意」が角に追いやられている。そんな気がしてなりません。



その場で感じたことをすぐに表現できるツイッターSNSやネットの掲示板など、そのテクノロジーは僕にとって驚嘆でしかありません。
僕の人生が5000回あっても、創ることができないでしょう(笑)。
実に効果的な使われ方をして、人々、社会に役立っている部分も
重々承知しているつもりです。
ただ僕はあまりそういうところには近づかないようにしています。
それはひとえにそれらが持つ‘スピード感’が誘惑する「侮蔑」もまた沢山存在しているからです。
気に入らない書き込みがあったら、その瞬間に「侮蔑」の言葉でもって返答し、
さらにその返答も「侮蔑」でもってなされる。
ここでは「敬意」という時間がかかるものは論外です。
いかにその場で効果を発揮する言葉=「侮蔑」でもって応えるか。
人を攻撃し、嘲笑し、貶める「侮蔑」は、人の感情を昂らせます。
攻撃された人の感情を昂らせ、それを見ている第三者の感情を昂らせます。
そしてそれはすぐに他の人に伝藩していきます。
いつしかそれらの人の周辺は「侮蔑」で覆われてしまいます。
「侮蔑」は「侮蔑」しか生みません。
僕自身、「侮蔑」が溢れる場において、自分の感情が昂ることを感じます。
自分もそのサイクルに引き込まれそうになることも感じます。
その危惧を自分でも感じるので、
僕は‘スピード感’あるテクノロジーには必要以上に近づかないようにしています。
(このブログがそうでないことを祈っています笑)
もちろんネット上にも「敬意」はあると思います。
ただ圧倒的に「侮蔑」の方が多いのも確かだと思います。
その理由の一つは、ネットの特性でもある‘スピード感’によるものではないか、
と考えています。


‘スピード感’の中に身を置くことは、
「侮蔑」スパイラルに陥る危険性を常に孕んでいるのかもしれません。



「敬意」がある場所は、とても穏やかです。
人を敬う気持ちは、攻撃的なものであるはずがありません。
とても陽性な気持ちで、それから発せられる行動は優しく、たおやかです。
その行動自体美しいものですし、それを見聞きする人をも心地良くさせます。
「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」は、
そんなことを感じさせてくれる番組です。
「侮蔑」同様、「敬意」も伝播します。
自分が「敬意」の場の心地良さを感じることで、
他の人にその素晴らしさをうつすこともできるのではないかと思います。
「敬意」ある場をみつけ、それを自分で感じることから、
自分が生きる場を「敬意」で満たすことは始まるのかもしれません。



【追記4/12】
「敬意」は閉じた場所でしか醸成されないのかもしれない、というアイデア