「強いリーダー」について


「強いリーダー」と「独裁者」は同じ系列にあることは、はっきりと自覚しといた方が良いと、ふと思いました。
その二つに共通することは、


他者の言葉よりも自分の言葉を重視する=対話をしない、できない、軽視する


という傾向ことだと考えます。
ここでいう「対話」とは、価値観が違うもの同士が意見を摺り合わせて妥協点を見つける、という行為をさします。


ただ、同じ系列ですが、その二つをわけるとするなら、


「強いリーダー」は、対話を一回りさせた上で自分の名で物事を決定し、実行する‘可能性’がある

「独裁者」は、対話をせずに、自分で物事を決定し、実行することを常とする


ということでしょうか。
「強いリーダー」から、対話を一回りさせるという行為を抜けば、独裁者(に近い)存在になる、と単純にも考えています。

ただ、実際に世間で見る「強いリーダー」に対話を一回りさせる、という人はそれほどいないように想像しますが。


政治において「強いリーダーシップが求められる」という言葉が、毎日のように新聞、テレビ、ラジオなどで出てきます。それに乗っかってか、他の業界における話でもそれは頻出します。どこにいってもみんな「強いリーダーシップ」を求めています。
その理由は、言葉の伝染力であり、曖昧模糊とした、でも責任を負わせることができる‘魔法の言葉’として使い勝手が良い、ということなのでしょうか。
「強いリーダーシップ」はあくまで手段であって、手段を求める、というのは、なんだか変な気がします。
「求める」という行為は、その対象が実際には「手段」であったとしても、自動的に「目的」に繰り上げしてしまいます。「求める」とはそういう行為です。
「求める」→「目的」です。
「強いリーダーシップ」を求める風潮は、実際には「手段」であるそれを「目的」にしてしまっているのだと僕は思います。
実際に求められるべきとされるものは、強いリーダーシップでも、弱いリーダーシップでも良いのですが、それらを使って実行した「◯◯を××した」という結果ではないでしょうか。
「強いリーダーシップ」を求めることで、それが発揮された時点で満足してしまって、その先の「◯◯を××した」という結果を軽視するのは、なんとも愚かしい気がします。
言葉はそれを使う人、それを聞く人を馴致させる力を持ちます。
「強いリーダーシップが求められる」という世の中で溢れ出ている言葉に、自分を慣らさせないこと、使わないことを肝に銘じようと思います。


リーダーに、「強いリーダーシップ」を使うことが「目的」だと錯覚させないためにも。




だからどうした、という話ですが(笑)、
手段と目的を混同させるとロクなことがなさそうだ、とふと思ったので書いてみました。