誰が短期政権を望んでいるか考

今回の鳩山首相辞任の報道を
テレビであったり、ラジオであったり、新聞であったり、
webサイトであったり、ブログであったりで、
チェックしました。
色々な解説がされていました。
鳩山さんと小沢さんがそもそもあわない。
鳩山さんのリーダーシップがなかった。
言葉の軽さが招いた辞任劇だ。
などなど。
その報道の中に「国民」の声ももちろんありました。
「いかが思いますか?」「遅すぎるわよねえ」などの。


それらに触れれば触れるほど
「気持ち悪いなあ」
と感じていました。
正確なことを言えば、今回だけのことではなく、
以前から感じていたことですが、
今回ハッキリそのことを感じ、言葉にすることができるようになりました。
漠然としていたものに輪郭を付けることができた、
ということは喜ばしく気持ちの良いことですが、
その内容は気持ちの悪いものです。
その内容である言葉とは「他責」です。


メディアの報道、「国民」の声、どちらを取っても、
あまりに「他責的」すぎやしなかったでしょうか。
言い換えれば、メディア、「国民」はあまりに
「鳩山さんが悪い。もっと早く辞めるべきだった。無能」
と一方的に言いすぎだったのではないか、ということです。
僕はそう感じました。


普天間飛行場の問題が全く解決していない」
「高速無料化が達成されていない」
口蹄疫問題の対応が遅い」
「お金の問題もまだまだ怪しい」
恐らくこのリストはまだまだ長くすることもできるのでしょうが、
こういう問題があるんだから、辞めて当然、悪いのは鳩山さん
と確かに言えるかもしれません。
たくさんの課題が残ったままですから。
それを表すかのように、内閣支持率は発足当初の約70%から最後には
20%以下に落ちました。約8ヶ月間で。
課題が解決しないのだから内閣支持率が落ちて当たり前、
という至極分かりやすい理屈です。
小学生でもわかるような論理で非の打ち所がありません。
ただ僕は「非の打ち所がない」ものが胡散臭さを感じてしまう捻くれ者なので
少し考えてみたいと思います。


さきほどの
「課題が解決しないのだから内閣支持率が落ちて当たり前」
です。
重ね重ねこの理屈はパーフェクトです。
ちょっと文章をいじってみます。
鳩山内閣が課題を解決できないのだから、
 国民が意志を示す内閣支持率が落ちて当たり前」
と少し説明を加えてみます。
こういうことだと思います。
これも理屈的には何ら問題ないのですが、
ここで僕は冒頭に書いた気持ち悪さ=「他責」をズンズン感じてしまうのです。
「人(=鳩山内閣=鳩山さん)のせいにしすぎじゃございませんか」
と思ってしまうのです。
鳩山内閣(「世論」からすると鳩山首相個人といってもよいでしょう)が課題を解決できない」
は間違いないことですが、この「解決できない」ことに
「国民」は加担していなかったでしょうか。。??



鳩山さんは首相在任は約8ヶ月でした。
その前麻生さん、福田さん、安倍さんはそれぞれ約1年間の在任でした。
ほぼ変わらない短い期間で4人の首相が辞めました。
コロコロ変わっているなあという印象があります。
海外でもそう思われているようです。
4代も続けて「無能」な首相をもってしまい、
日本人は不幸なものですね。
これは、たまたま、なのでしょうか。
多分違います、たまたまではありません。
なぜならこの4代の状況には共通点があるからです。
みんな世襲議員だから!
と元気に答えてしまいそうですが、
安倍さんの前の小泉さんも世襲ですが5年くらい続きましたので違います。
それでは一体何なのか。
4代にまつわる共通点は
「首相の資質」「任命責任」「リーダーシップの欠如」「ぶれた」
という言葉で内閣支持率を落としまくり辞任に至った、です。
ここ何年かよく聞くなあと思っていましたが、
首相が変わる度に使われていたのでそれもそのはずです。
(鳩山さんで「任命責任」はなかったと思いますが)
4つ以外の言葉もあるかと思いますが、
主に4つの言葉で、4つの内閣が終焉を迎えた、
というのは何だかとてもすごいことだなあ、と感心すらしてしまいます。


しかし不思議だと思いませんか。
首相も違う、内閣の顔ぶれも違う、対応課題も違う、状況も違うの
違うことだらけなのに、共通の言葉で評価されて、
内閣支持率を落として、総辞職に至ったわけです。
もしかしたら上の4つの言葉が、昔から内閣を評価する言葉だったのかもしれませんが、
僕の記憶だと、これらの言葉が言われるようになったのは、
安倍さんからだと思います。
その前の小泉さんの時は聞いた記憶はありません。
さらにその前も。
あったのかもしれないけど、それは「言葉」としてで、
「意味」としてはなかったかと思います。
そこまでの力を持った言葉ではなかったのではないでしょうか。


それではなぜ違う内閣が、同じ言葉で評価されたのか。
たまたまそれぞれの内閣が、同じ言葉で評価される状況になったのか。
そうかもしれないですけど、4つの内閣に共通するたまたまがあるのか、
といったら、それは可能性が低そうな感じがします。
課題も、人も違うのだから、評価されるべき点は当然違うものであるはずですし。


考えられるもう一面は、評価する「国民」側の評価軸が、
「首相の資質」「任命責任」「リーダーシップの欠如」「ぶれた」
という4つの言葉に安倍さんの時に固定された、という可能性です。
そして多分こっちの方が真実なのではないか、と僕は思っています。
多分「国民」は確固たる評価軸を手に入れたのです。
内閣を評価する際に4つの言葉で評価する態度を手に入れたのです。
「ぶれない」軸を手に入れたのですから喜ばしいことかもしれませんが、
それではなぜ安倍さんの時にその評価軸を獲得したのか、
ということが今度は気になります。
そういう時は根っこに近づくと良いようですので、
それを実行してみます。


その方法として
「首相の資質」「任命責任」「リーダーシップの欠如」「ぶれた」
のそれぞれに共通しているものがないかを考えてみます。
言葉も、意味も特に共通しているものはないと思われます。
漢字、ひらがな、カタカナも使われていて別々だし。
そんな時には一歩引いてみます。(別に引かなくてもいいけど)
そんなことをしていると一つ見えてくるものがあります。
それは、これらの言葉が向けられた先は全て「首相個人」である、
ということです。
「首相の資質」はそのままですが、
任命責任」は「首相の任命責任」ですし、
「リーダーシップの欠如」は「首相のリーダーシップの欠如」ですし、
「ぶれた」も「首相がぶれた」です。
全て「首相の/首相が」という「首相個人」に向けられたものなのです。
これが4つの言葉の共通点です。


その共通点をもって、改めて
「首相の資質」「任命責任」「リーダーシップの欠如」「ぶれた」
の4つの言葉で、安倍、福田、麻生、鳩山の4代の内閣が総辞職したことを
考えてみると、あることが見えてきます。
それはこの4代の内閣は、「首相個人」への評価で内閣支持率を落としに落として総辞職をした、ということです。
内閣全体への評価ではなく、首相個人の評価によってです。
(確かに各内閣で大臣の不祥事もありましたが、それも最終的には「首相の任命責任」となり首相個人への評価になりました)
つまり、安倍、福田、麻生、鳩山内閣は、彼ら個人で評価され、
彼ら個人の評価が落ちたから総辞職したのです。
そして、内閣全体の評価ではなく、
首相個人の評価のみがクローズアップされたのがこの4代だったのです。
よくわかりませんが、恐らく以前にも首相個人の評価によって評価され
退陣した内閣もあっただろうと思います。
しかし、4代続けて、ほぼ同じ短期間で、となると初めてではないでしょうか。
これは最早‘たまたま’とは言えないでしょう。
‘たまたま’の領域を超えています。
僕はこの「首相個人の評価のみをクローズアップする」
ということ、さらにはそれによって
「短期間で首相を交替させる」
は最早日本社会に構造化されたものであると控えめにでも断言します。
言葉を換えるとより刺激の強いものになります。
それは
「「国民」は自分たちの意思で短期間で首相を交替させている」
です。
すごくショッキングじゃありませんか。
でも真実です。(多分)
「国民」は「全くもう、いい加減にしろよ」ということを
自分たちで選択的に行っているのです。


なぜそんな自分たちが困ることを、
自分たちでやっているのでしょうか。
自分の首を自分で絞める行為に等しいわけですが、
なぜにそんな苦しいことをするのか。
苦しいことを意識的にするにはかなりの精神力か(=修行)、
もしくは強い感じない力(=麻痺)を要します。
「我慢、我慢」と言って頑張るか、
「……」と無言で特に苦しいことをやっている意識を持たないか。
苦しいことに向かう時そのどちらかの姿勢にならざるを得ないかと思いますが、
今のケース
「「国民」は自分たちの意思で短期間で首相を交替させている」
という苦しいことに対峙する状況では、
どちらの方法を選択しているのでしょか。


どちらかと言われればよくわかりませんが、
消去法をすれば即分かります。
まさか「我慢、我慢」と言って修行をしているわけじゃないでしょう。
「首相を短期間で交替させることで起こる苦しみを自分たちに与えて修行しよう」
とは実践しているとは思えません。
それは今回の鳩山さん辞任に対する「国民」の声を聞けば分かります。
「遅すぎだ」
「辞任は当然」
「そもそも無理だった」
など鳩山さんに向かう言葉がその主でした。
仮に修行だったら、自分たちに向かう言葉、例えば
「私たちの予定通りの期間です」
「辞任は当然。あえてそういう人を選んだんですから」
「よく任務を果たしたし、私たちもしっかりすぐ辞める人を選びました」
などがあるべきでした。
「次もそういう人を選びます!修業ですもん!」
くらいあってもいいかもしれません。
ただ、周りを見渡しても「修行のために内閣を短期で交替させている」という声は聞いたことありませんし、そんな意識が「国民」にあるとも思えません。
そんな「修行」している意識ないし。
なので、「修行」の方は消去しても問題ないでしょう。


それで残るは「麻痺」させている方です。
苦しいことをやっている意識はないけど、
自分たちで苦しいことをやっている形です。
無意識、という言葉を使いますが、
無意識のうちに「国民」は
苦しいこと=自分たちで短期間のうちに首相を交替させる
ことを実践しているという、一見摩訶不思議な形です。
ただ僕はそうなのだ、と思います。
これなら先の「国民」の声
「遅すぎだ」
「辞任は当然」
「そもそも無理だった」
も納得できます。
自分たちがやっていることに気付いていないのですから、
言葉の先が自分たちではなく、首相のみに向かっても何らおかしくありません。


「「国民」は無意識的に短期政権を望んでいる」
整理するとこうなります。
ショッキングであることに変わりありません。
「そんなバカな!」と思いたいですが、
4代も同じような状況が続いていることを考えると、
たまたまレベルでは推し量れないところで
すでに構造化されているとする方に蓋然性が高いと思われます。
というかそう考えた方が自然です。
4人の首相が、同じ言葉で評価され、同じ過程で支持率を落として、
同じような期間で辞めていっているのですから。


そこで湧き上がってくる疑問は、当然
「なんでそんなことをやるの?」
です。そしてこれこそ核心です。
なぜこんな自分を苦しめることを「国民」は無意識的にやっているのか。
「なぜ「国民」は首相個人を標的にして支持率を落とすことをし、短期で政権を替えることを切望しているのか」
なかなかに分かりづらい問いの立て方ですが、
多分こういうことなのだと思います。


「システムは問題ない(と信じたい)」


切なる願望です。
自分たちを取り巻く、生活の基盤をなす様々なシステムは健全である、
という宣言に、安らかに身を任せたい。
そんな内なる願いです。
そんな願いが「短期政権」を熱望させているのだと思うのです。


これは一体どういうことでしょう。
4代の前の首相=「短期政権」が構造化される前の首相は、
小泉さんでした。この人の首相在任期間は約5年でした。
戦後の首相在任期間をみても、
佐藤栄作さん、吉田茂さんに続く1980日だったので、
日本においてはかなり長い方ということになります。
その後4代がそれぞれ約1年くらいだったことを考えると、
感覚的にも余計長かったように感じられます。
小泉さん5年間の政治的評価は僕にはよくわかりませんが、
小泉政権間で明らかになった幾つかの事柄が、
「国民」の目にさらされたことはそれほど吟味せずにでも
評価できるのではないかと思います。
それらの代表的な事柄として、
官僚の天下り、公務員の厚遇ぶり、守旧政治家の存在、そして国の借金
などがあげられるのではないでしょうか。
これらは小泉さんの時に発生したわけではありません。
もっと昔々からあったものです。
小泉さんの時に、「国民」がこれらのものの存在をハッキリと認識したわけです。
それらの存在を目の当たりにし、
小泉さんが言われた「構造改革」に対し、
一定数以上の「国民」が諸手を上げて賛同しました。
その目的はもちろん、
官僚の天下り、公務員の厚遇ぶり、守旧政治家の存在、そして国の借金
などの「ほころび」を改善するためです。
これらに対し「良くない」と感じたからこそ、
それを改善してくれる(だろう)小泉さんに「国民」は賛同したのです。
言葉を換えるなら
「国のシステムを変えてくれるだろうから賛同した」
ということです。
その時「国民」は国のシステムの変化を望んでいたのです。
「このシステムじゃダメだ」と感じていたわけです。


さきほど僕は「短期政権への願望」の理由を
「システムは問題ない(と信じたい)」
と書きました。
何だか逆のような気がします。
「このシステムじゃダメだ」と
「システムは問題ない(と信じたい)」です。
システムを否定するものと、肯定(したい)するものです。
同じ「国民」が、相反するかのようなこの二つを志向することは矛盾するのか。
同時に存在していたら支離滅裂な感じもしますが、
この二つが存在した時間には差異があります。
小泉政権下 ⇒ 「このシステムじゃダメだ」
後4代   ⇒ 「システムは問題ない(と信じたい)」
つまりは、
「このシステムじゃダメだ」から、「システムは問題ない(と信じたい)」へ
と移行したのです。

なぜ移行したのでしょうか。
なぜに「このシステムじゃダメだ」で押し切れなかったか。
それには、恐らく2つ理由があります。
一つは、「国民」が大好きな強烈な「リーダーシップ」を
持っていた(とされる)小泉さんでも解決できなかった、
という事実が白日の下に曝された時、
「国民」は「このシステムじゃダメだ」を実行するのは不可能なのだ、
と強烈に感じてしまった、ということ。
そしてもう一つが、「このシステムじゃダメだ」というシステムを
改善した時、自分に不利な影響があるということを確かに感じた
「国民」がいた、ということ。
「無力感」と「既得権の保護」この2つを持って、
「このシステムじゃダメだ」=「構造改革
は、表向き言葉として使われているけど、実際に実行するパワーが
落ちたのだと僕は思います。
その結果、
「このシステムじゃダメだ」から、「システムは問題ない(と信じたい)」へ
の移行が行われたのです。
「システムは問題ない(と信じたい)」=「見ないふり」の選択です。
これが、小泉さんの末期から始まり、
安倍さんの時から本格的に主流になったのです。
そして、安倍さんを含め4代に渡りその状況が続いていたのです。
(管さんになった今でも続いていますが)


整理すると、安倍、福田、麻生、鳩山政権は、
「システムは問題ない(と信じたい)」=「見ないふり」
の空気の下運営された政権だった、ということです。


これは何を意味するのでしょうか。
「システムは問題ない(と信じたい)」という空気における状況の前提は、
そのままですが、「システムは問題ない」です。
そっから始まります。
それ以下=システムに不具合があることは考えません。
「システムは問題ない」んですから。


通常何か問題が起これば色々な方面からその原因なりを考えるものです。
別に国家とか大きなものじゃなく、個人レベルでも。
その色々な方面の中には、「当事者が悪い」や「状況が悪い」など、
それこそ色々あるわけですが、
その中に「そもそものシステムが悪い」があっても
何ら不思議ではありません。
しかし「そもそものシステムが悪い」は選択股として最初からありません。
「問題ない!」と宣言している状態を前提としているのですから。
そんな状況下で、何か問題が起こった時、どのように対応するか。


どこかに原因があるはずです。
それは再三言いますが「システム」にではありません。
では「状況」にでしょうか。
かもしれないけど、手に取れるものでもないしやりようがない。
「システム」にも「状況」にも原因がないと決めちゃえば、
残るはそれを行っている人間です。
「関係している人間が悪い」
そこで出てくるのが「首相に原因がある」です。
「責任者である首相が悪いから問題が解決しないんだ!」


「責任者でてこい!」と叫ぶ感じで、
「首相の資質」「任命責任」「リーダーシップの欠如」「ぶれた」
の言葉を駆使して首相個人に原因究明の矛先が向けられます。
何か起こるたびに「問題の原因は首相が悪いからだ」
ということを繰りかえしているうちに、
脊髄反射的に問題が起こったらすぐ首相を追求する、
という「他責」行為が通常のものとなります。


「首相がしっかりしていないから問題が解決されないのだ」
「首相にはリーダーシップを発揮してほしいですね」
「ぶれない政治を目指してほしい」
「首相の任命責任はさけられない状況ですね」
「首相の資質に欠けるんじゃないの」


こんな言葉を、テレビでも新聞でもラジオでもネットでも、
そして「国民」の声でも、年がら年中、目にし、耳にしました。
「どうするの? 何とかしてよ」
その繰り返しで、支持率が段々落ちて行きます。
4政権、最終的には全て40、50ポイント落ちたのではないでしょうか。
「問題を解決しないんだから、支持率が落ちても当然だ」
というのは理路整然としています。
しかし本当にそうなのでしょうか。
「問題を解決しない」と「支持率が落ちた」の因果関係は、
本当に上記のものだけでしょうか。
もちろんそれもあるでしょう。
しかし僕はこういう可能性もあるんじゃないかと思っています。
それは
「支持率が落ちたから、問題を解決できなかった」
という因果関係です。
さらに言うなれば
「支持率を落として、問題を解決させなかった」
とさえ言えるかもしれません。


メディアも「国民」です。
「システムは問題ない(と信じたい)」のうちにあります。
そんな彼らが報道することは、
「システムが悪い」ではありません。
「首相が悪い」ということです。
「この首相が悪いから問題は解決しないんですよー」
ということをせっせと報道していました。
今回の鳩山さんが辞任した最大の原因だと思われる普天間基地の件に
関して、そもそものシステムを論じたメディアはあったでしょうか。
アメリカにとっての基地」、「東アジアにとっての基地」、
「沖縄にとっての基地」、「日本にとっての基地」。
多角的な見方が可能なこの案件に関して、
その考えられる全てを吟味して、咀嚼して、その観点から
報道をしていたメディアはあったでしょうか。
僕が知る限りではありませんでした。
「沖縄にとっての基地」
にのみ執着して報道されていた、という記憶しかありません。
「沖縄の人の気持ちを蔑ろにして裏切った鳩山首相はけしからん!」
何ヶ月間か続いた普天間基地の報道はこの一文に集約されます。


多分、メディアの人にこの話をしたら、
「全てに関してちゃんと調査して報道しましたよ」
と言うのではないかと思います。
多分彼らなりにしたのでしょう。
新聞も隅々まで読めば書いてあったのでしょう。
しかし、僕の印象は「沖縄にとっての基地」報道しかありませんし、
新聞でも、テレビでもラジオでもトップニュースになっていた回数が多いのは
「沖縄にとっての基地」報道だということは断言できます。


問題はなぜに「沖縄にとっての基地」報道がこの件に関して多かったかです。
アメリカにとっての基地」でも「東アジアにとっての基地」でも
「日本にとっての基地」でも捉え方は他にもあったはずです。
しかし、なぜ「沖縄にとっての基地」をメディアは選んだのか。
メディアも「国民」です。(「国民」の最たるものかもしれません)
「国民」は「システムは問題ない(と信じたい)」という空気を
選択しています。
組み替えると、
メディアは「システムは問題ない(と信じたい)」
になります。
メディアも「システムは問題ない(と信じたい)」を前提にしているわけです。


その前提に立てば「アメリカにとっての基地」、
「東アジアにとっての基地」、「日本にとっての基地」を取り上げることは
難しいと思われます。
なぜなら、これらはシステム抜きには語ることができないからです。
アメリカにとっての基地」⇒ 日米同盟、アメリカのアジア戦略
「東アジアにとっての基地」⇒ 日本のアジア戦略、他アジア国の情勢
「日本にとっての基地」  ⇒ 日米同盟、全国の米軍基地について 

少なくともこれらのシステムを考慮にいれなければ、
語り得ぬことなのです。
そして、それらを語ってしまうということは、その過程において
「システムに不具合がある」ことを露見せざるを得ないことを意味します。
これは「システムは問題ない(と信じたい)」に相反するものです。
「システムは問題ない(と信じたい)」の前提を崩してしまう選択股は、
メディアにとって最初からあり得ない選択だったのです。
そこで彼らが拾い上げたのが「沖縄にとっての基地」です。
ここにももちろんシステムはあります。
しかし、それを脇に置いておけるほど大きな他のものがあります。
「沖縄の人々の感情」です。
「沖縄の人々がかわいそうじゃないか!首相なんとかしろ!」
で話が通ってしまいます。
実際これが何ヶ月にもわたって報道されました。
メディアがシステムに触れずにこの問題を報道するには
「沖縄にとっての基地」の視点からしかできなかったのです。
メディアも「原因はシステムではなく、首相にある」を実践したわけです。


ちょっと寄り道をしましたが、ここで
「支持率を落として、問題を解決させなかった」
についてです。
支持率調査はメディア各社が、
上記のような報道を日々受け取っている「国民」に対して
行うものです。
調査を行う時期は何か問題があった時なので、
大概支持率は落ちます。
「問題を解決しないんだから、支持率が落ちても当然だ」
という最もな理屈になります。


ところで、「国民」は支持率が落ちれば政権運営が行き詰まることを
知っています。
よく「支持率30%以下になると危険水域」ということが言われています。
30%以下になると堰を切ったかのように
メディアは「求心力が低下する」と言い、
政治家は今までだまっていたのに急に「わーわー」言い出すのを
「国民」は何度も見てきました。
そしてそれらが内閣の政権運営を邪魔するものであるということを
学びました。
「支持率が落ちれば、問題解決の邪魔をできるんだ。そして首相は辞めるんだ」
このことを知った「国民」が、ある問題に内閣が直面した時に
どのような行動を取るかを想像してみると面白そうです。


「国民」は「システムは問題ない(と信じたい)」ことを前提にしています。
なので問題はシステムのせいではありません。
でも原因を見つけなくちゃだから、首相の責任にするというのは
先ほど書きました。
ではこの「首相の責任にする」を実行するにはどうしたらいいでしょうか。
その手段が「支持率を低下させる」です。
支持率を低下させることで、政権運営を困難にさせます。
運営が困難になった政権はますます問題解決が難しくなります。
そうすると、「問題を解決できない首相」が誕生します。
「国民」は選択的に支持率を落とすことで、
「無能な首相」を作り出している、という図式です。


このことをもって
「問題を解決しないんだから、支持率が落ちても当然だ」
という最もな理屈がある一方で、
「支持率を落として、問題を解決させなかった」
もあり得るのではないか、と僕には思えてしまうのです。
というより、「システムは問題ない(と信じたい)」を守るために、
首相個人の不具合に問題を持って行く、
という後者の方が実は実際なのではないか、と思うのです。
「国民」は首相を無能な存在にすることに加担しているのです。
無能な存在にして、問題を解決できない状況に持って行くことに加担しているのです。
そして、「首相が無能だから解決できなんだ」という図式を作り出して
いるのです。
メディアも歩調をあわせて「無能なんだから辞めなさい」を
連呼し、首相に責任を取らせることに加担します。
それも「首相の無能ぶり」を表向きにも証明するかのような
「短期政権誕生」に加担しているのです。
「国民」は短期政権を自ら望んで選択していると言える理由です。
それもこれも「システムに問題がある」という
自分たちの「システムは問題ない(と信じたい)」を否定する
嫌なものから目を背けたいがために。


鳩山内閣での問題は何も解決されていないのに、管内閣の支持率は、
様々なメディアの調査でのきなみ60%以上のようです。
このことを見ても「無能な首相」一人に責任を負わせていた「国民」の姿が
浮き彫りにされるのではないでしょうか。
管さんが「無能な首相」にならされる日もそう遠くないかもしれません。



日本には明らかにシステムの不具合があります。
国の借金は、竹中平蔵さんによると
「政府の債務残高は今後2、3年で約1100兆円に達する見込みだと指摘する。これは、日本の純国民金融資産とほぼ同水準だ。」
そうです。
現在でも約880兆円ほどのようです。
この数字を見ると、
今、ギリシャやスペイン、ハンガリーなどで話題になっていますが、
「国が破産する」という状況もそう遠くないような気もします。
(それらの国と日本は状況は違いますが)


日米同盟もどうなんでしょう。
日本は主権国家と言いながら、国は他国に守ってもらっています。
内田樹さんは「日本はアメリカの軍事的属国だ」と言われています。
このシステムは歪ではないでしょうか。
別にアメリカに出て行ってもらって、自衛をするのが正常だ、
といっているわけではありません。
何が「正常」なのかをチェックすることが大事なのではないでしょうか。
それには日米同盟のシステム、日本と隣国との関係のシステム、
日本国内のシステム、関係するあらゆるシステムをチェックしなければなりません。
「システムに問題はない(と信じたい)」という前提からでは、
そのことは不可能です。
チェックするということは「不具合があるんじゃないか」を動機とするものですから。


システムを改善するためには、多分すごく長い年月がかかります。
その年月を少しでも短くするには、同じ人が継続的にやり続けることです。
一般の会社でも引き継ぎばかりやってたら、
進むものも進みません。
短期政権は、システムの不具合の前に、首相の責任のみで終わります。
「首相が悪いから問題が解決しないんだ。だから変えよ」と言って終わりです。
しかし、ことの真相は、そんな個人の力量ではなく、
そもそものシステムの不具合にあることの方が多いんじゃないでしょうか。
特に国という単位になればなおさらではないでしょうか。
「システムに問題がある」ことから目を背けずに、
システムを改善するよう政権に協力するという思考の方が
よっぽど素敵だと僕は思うのです。



いささか「国民」に対して「他責的」すぎましたでしょうか(笑)。

一方的に評価する「他責」の思考を持つ人より、
一緒に物事を進めて行く「恊働」の思考を持つ人の方が僕は好きです。
もちろん「国民」が全て悪いなんていうことは絶対にありません。
同時に政治家が全て悪いこともありません。
お互いの悪いとこを補いあい、「恊働」でものごとが進められるのが
気持ち良い世の中なのかなと思う次第です。