今日の一枚 〜『GO』JONSI


福岡伸一さんの著作「生物と無生物のあいだ」を読んだのは、
確か2年ほど前でした。
2年も過ぎるとほとんど何が書かれていたのか覚えていません。
多分、読んですぐの時もあまり覚えていませんでしたけど(笑)。


面白かったなあ、という印象が残っています。
小説的にも、エッセー的にも、学術的にも、
仮面を付け替えるような身軽さで、
その印象を変えて行く文章が僕は好きでした。
何が書かれていたのか、ではなく、こうに書かれていた、
で面白さを記憶しているところを見ると、
文章の面白さは内容だけでなく、文体にもよるんじゃなかろうか、
と思ったりもします。


内容で唯一と言っていい記憶していることは、
「生物の奇跡」についてです。
のらりくらりと僕は30年以上生きているわけですが、
この年月の間、一つだけまったく変化がないことがあります。
身長も、体重も、考えることも、嗜好も、何度も変化を遂げている中で、
唯一変化がないもの。
それは、この30年間、
一度も心臓が止まったことがないことです。
一度も脳が止まったことがないことです。
一度も肺が止まったことがないことです。
臓器が動き続けていることです。
しかも結構適切に。


目が眩む思いがします。
休むことなく、動き続けて、生命をつないでいる。
暑いときも、寒いときも、身体を動かしたときも、寝ているときも、
その動きに緩急をつけながら、生命をつないでいる。
例えば、たった5分間、肺がお休みしたら、多分僕は死にます。


この勤勉さと耐久性には賞賛の言葉以外浮かびません。
ひたすらすごい。
今こうしている時も、全てが動いています。
このこと自体すでに奇跡的ですが、
もう一つ加えると、僕には「奇跡」そのものに思えてきます。


この生命装置が動いているメカニズムを
僕はまったく知らない


ということを付け加えたいと思います。


言葉をかえれば、僕は自分のまったく知らないルールで、
まったく知らない法則で、まったく知らない構造で、
生きている、ということです。
それを一言で言えば、生かされている、でしょうか。
自分の意思ではなく、何かの意思によって。


この「自分の関与できないところで決定されている」、
という自分に対する無能感と、
決定している何ものかに対する畏怖感こそが
この「奇跡」が「奇跡」であることを担保しているのではないでしょうか。
僕にはそう思えます。


生きている、そのことが「奇跡」だ、
というのはただの詩的な絵空事ではなく、
それは確かな真実なのだと僕は思います。





この作品を聴いて、そんなことを思い出しました。



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