デジタルコンテンツ購入考

デジタルコンテンツなんて言っても、多分たくさんあるので、
とりあえず音楽ついて考えてみました。


生来の天の邪鬼な性質がかなり影響しているのかと思われますが、
以前より何だかデジタルコンテンツを購入することに不信感、
というと大袈裟ですが、何と言いましょうか、
何かちょっと違うな感を持っていました。
ただそれが何なのか、がよく分からなかったので、
とりあえず放置していたのですが、
何となく思いついたので、そのことについて書いてみたいと思います。



音楽を聴くというのは、果たしてどういうことなのだろう?
ということから考えてみたいと思います。
「音楽を聴く」んだから、文字通り音楽を聴くわけですが、
実際どんなスタンスで音楽は聴かれるものでしょうか。
そんなもの人それぞれなんでしょうけど、
多分ほとんどの人で共通している前提がありそうです。
それは
「この音楽が良い作品」であってほしい、
という願いです。
意識的にも、無意識的にも、これが前提となり音楽は聴かれる、
と僕は考えています。
わざわざ自分の時間を使って聴くのだから、
「悪いものでありますように」と願って音楽を聴く人は、
それほどいないと想像されます。
「この音楽が良い作品であってほしい」という前提で音楽を聴く。
ちょっと「音楽を聴く」に肉付けができました。


それではその前提があるとないとではどう違うのか。
「そんなものあってもなくても、音楽は音楽だ。
 良いものは良いし、悪いものは悪い。」
とスパッとかっこうよく言い切りたいものですが、
残念ながら実際はそんなかっこよいものではなさそうです。


その前提がある場合の実際は、
例えば良いとは思えない作品を聴いた時、
「聴いたけどそんなに良くないなあ。でも僕が選んだし、時間もかけたし、このまま良くないで終わったら、なんか無駄になっちゃうな。よし、良いところを探して、良い作品にしちゃおう」
という、何とも自分勝手な作業がされているのではないかと想像します。
こんなこと実際に意識して思っている人はそんなにいなく、
この作業は無意識レベルで行われています。
これはあくまで推測なのですが、かなり信憑性の高い推測だと思うのです。
自分のやったことに対し「無駄だ」と言い切り、納得することは、
その無駄なことをした、ということ以上のエネルギーを使う、
言い換えれば、自分を否定する、ことに繋がるでしょうから、
それを回避する方法を取ることは自然なことだと思われます。
その方法として、
「よし、良いところを探して、良い作品にしちゃおう」
という作業を選択しているという推測は大いに「あり」だと思うのです。


もっと分かり易い場面は、
好きなミュージシャンの新作を聴いた時、
「あれ、そんなに良いとは思えない…」と感じた場面です。
そう感じた後どうするか。
「新作は良くないなあ」でそのままにする手もありますが、
そこは自分が好きなミュージシャンです。
そんな簡単に割り切れたら「好きなミュージシャン」とは言えません。
そこでこういう流れはいかがでしょう?


「好きなミュージシャンの作品は良いものであってほしい!」
という感情がゆらゆら自分の中で漂い、その後に
「きっと良いはずだから、そこを探そう」
と何度も何度も聴き、
「ここが良いなあ」
というところを発見し、そこを中心とした作品に作りかえ、
それを膨らませ
「なかなかに良い作品ですな」
と自分で納得する。
「良い作品」の出来上がりです。


僕はこういう経験がけっこうあります。
確認したことないですけど、
他の人でもこういうことはあるのではないでしょうか。
好きなものは否定したくないものですから。
自分のフィルターを通し、いろいろこねくりまわし、
自分のスッキリする理屈や雰囲気を作品の中に見いだした時、
その作品は「良い作品」になる。


何とも不埒で、自分勝手な感じがします。
自分が良いと思えるように落としどころを見つけて改変しているのですから。
作品を作品のまま聴くのではなく、
作品を自分仕様に書き換えているのですから。
ただしかし、この不埒さ、嫌悪ばかりしていられません。
というか、むしろこの不埒さこそが、
「良い作品であってほしい」という音楽を聴くことの前提を満たす
マナーなのではないか、僕はそんな風に考えています。
「良い作品」に出会うためには非常に重要なことのように思うのです。
なぜなら、その不埒な作業は「「良い作品」にしよう!」という
‘良い作品製造作戦’であり、
その作戦を遂行する=「良い作品」を作ろうとしている人の方が、
そうでない人よりも
「良い作品」に出会う確率が高いのは当然だと思うからです。


この作業をしっかりやる人の方が、「良い作品」に出会う確率は高いはずです。


この音楽が「良い作品」であってほしい、
という音楽を聴く前提的なスタンスを満たすためには不埒であれ!


と勇ましく吠えてみるわけですが、
これが言いたいわけではありませんでした。
その後です。
僕たちは、
「この音楽が良い作品」であってほしいというスタンスを前提にして
音楽を聴くわけですが、
どうせならより多くの果実を得たい。
同じ「良い作品」でも、「より良い作品」の方がいい、
というのは偽らざる人間の心情だと思います。


ここで提言です。
「より良い作品」に出会う確率をあげたければ、
お店でCDを買うべし、デジタルコンテンツじゃなく。


魚民のトイレにある親父の小言みたいですね(笑)。
ただ、ちょっと真面目に考えていると、
けっこう的を射ているのではないか、と僕は思うのです。


「良い作品」を「より良い作品」にするためにはどうしたらいいか、
というところに糸口がありそうです。
結論から言えば、上記の


「きっと良いはずだから、そこを探そう」
と何度も何度も聴き、
「ここが良いなあ」
というところを発見、作りかえ、それを膨らませ
「なかなかに良い作品ですな」
と自分で納得する。
「良い作品」の出来上がりです。


という自分勝手で不埒な作業をより精密に、真剣にやることです。
より精密にその作品の良いところを発見するよう努め、
より真剣に自分がしっくりくるよう作りかえる。
これこそ「より良い作品」に出会うコツです。
その作業に熱心であればあるほど、
その作品の細部にまで触れることができ、
「他の人にはわからないけど、自分にはわかる」
という作品の唯一無二性にまで達することもでき得ます。
さらに「自分しかわからない」という優越感も醸造され、
自分にとってとても大切な作品=より良い作品になる。


それではどのようにその作業に熱心になれるか、
というのがポイントになるかと思いますが、
最初の方に書きましたが、この作業は多くの場合
「無駄にしたくない」という本能的欲求を前提とする
無意識のうちに行われます。
意識的にこんなことばかりしてたら、
自分で自分にうんざりしそうですし(笑)。
無意識的作業を加速させなければなりません。
恐らく、直接的にそれをすることはできません。
なにせ無意識的作業ですから。
直接的にできたら、それは意識的なものになってしまいますし。
どのように無意識的作業を加速させるか。
…うん、よくわからない。
そんな時は最初に戻ってみるのがよさそうです。


そもそもなぜに不埒な作業をする必要があるのかといえば、
それは「良い作品」であってほしいからです。
ではなぜに「良い作品」であってほしいのかといえば、
それは自分の使った時間、エネルギー、選択などを無駄にしたくないからです。
僕はこの「無駄にしたくない」がそもそもの始まりだと思います。
「無駄にしたくない」を実現するために、
「良い作品」を聴いた、という結果を得なければならない。
自分の使ったものと、それによる結果を同等か、それ以上にしたい。
その作業なのだと思います。


そこでこの「無駄にしたくない」をより強いものにすれば、
必然的に不埒な作業に熱心にならざるを得ないのではないか??
と考えてみます。
「無駄にしたくない」対象は、上にもありますが、
時間やらエネルギーやらお金やら、
自分が聴く作品に費やしたもの全てものです。
その全てを無駄にしたくない。
逆から考えれば、その作品に費やす全てが大きくなれば大きくなるほど、
その無駄にしたくない欲求は強くなるはずです。
自分がその作品に費やすものを大きくすれば、
「良い作品」であってほしい、という欲求は強まり、
それを実現するための不埒な作業に熱心になる。
こんな式が見えてきます。


ここでやっと


「より良い作品」に出会う確率をあげたければ、
お店でCDを買うべし、デジタルコンテンツじゃなく。


です。


お店でCDを買うのとデジタルコンテンツを購入することの
違いを見てみます。
すごく単純です。
お店でCDを購入するには、まずお店にいかなければなりません。
そしてお金かカードなどをレジで出してCDを買わなければなりません。
そしてまたお家に帰らなければなりません。
対してデジタルコンテンツを購入するには、
PCで購入サイトにアクセスします。
それで何回かクリックすれば完了です。


二つを比べてみれば1秒で気付きますが、
お店でCDを購入する方が圧倒的にめんどくさいです。
めんどくさいということは、
時間も、エネルギーも、お金も(基本的にデジタルコンテンツの方が安いし、お金を払った感はお店の方が大きいのではないか)、
何もかもが、「余計にかかる」、ということです。
おまけに保管方法でも雲泥の差があります。
CDは場所を取ります。デジタルコンテンツは場所を取りません。
例えば家賃6万5千だったら、そのうちいくらかはCDの場所代になるわけです、実際のところ。
デジタルコンテンツでしたら、その意味に置いて無料です。


デジタルコンテンツ購入の利便性は圧倒的です。
お店でCDを購入する非利便性も圧倒的です。
利便性を判断基準にすれば、お店でCDを購入するという判断は
絶対にあり得ません。
その差は絶望的に埋めがたい。
ただ、利便性を得たことで失ったものはないか。
非利便性が大きいために得ているものはないか。
という点検は怠ってはいけないもの事実。


非利便性は、私たちに多くのエネルギー、時間、お金などのコストを要求します。
その要求が大きければ大きい程、
費やしたコストも大きくなり、それを取り返す欲求も強くなります。
「無駄にしたくない」
その欲求が強くなります。
そしてその欲求の先には、これから得るものが
「良いもの」でありますように、という切なる願いがあり、
「良いもの」にしちゃおう、という熱心な意欲に繋がります。
その意欲が結果的に「良いもの」を作り出します。


非利便性であればあるほど、
それを乗り越えて手に入れたものは「良いもの」でなくてはならない。
さらに「より良いもの」でなくてはならない。
でなければ自分のかけたコストを回収できません。
そのコスト回収を熱心にやることで、
僕たちは「良いもの」を作り出すことができるのです。
それが「良いもの」を得る確率を上げるコツです。


お店でCDを買って聴こうが、デジタルコンテンツをDLしようが、
音楽自体に何の違いもありません。
無料で手に入れようが、10,000円で買って聴こうが
音楽自体に違いはない。
一聴して「良い!」と思える作品も数多くあります。
そんな作品に、この2つの購入形態で違いはないのでしょうか。
返す返すですが、やはりあります。
「良いもの」を「より良いもの」へ。
「より良いもの」を「特別なもの」へ。
「特別なもの」を「唯一無二なもの」へ。
このアクロバティックな飛躍こそ、
非利便性=コストの負荷に担保されているのです。


音楽を聴くということは、音楽そのものだけを聴いているのはなく、
その周辺事情も含めた「状況を聴く」ことなのです。
僕はそう思っています。


たくさんの「良い作品」に出会いたいと願うなら、
お店でCDを買うべし、です。


苦労して獲得した物の方が大切にしようと思うんじゃなかろうか、
というごく普通のことを言いたくてダラダラ書いてしまいました。



まあ、いつもの如く、僕の勝手な想像ですが(笑)。