Coldplay @さいたまアリーナ


もうだいぶ前のライヴだけど、文章を書きかけていた。
とりあえず完成させる。

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水曜日だけど、Coldplayのライヴに行ってきた。
めちゃくちゃ好きなバンドではない。もちろん嫌いなわけなく、好きなんだけど。
ただ、今回のタイミングで絶対いかなくちゃ、と直感的に思い、さいたまアリーナという「う〜む」な場所ではあるが早々とチケットを買っていた。



昨年リリースの新作『Viva La Vida Or Death And All Friends』は、ジャケットのドラクロワ民衆を導く自由の女神」のイメージが直結するような、時代がかったストリングスが特徴的なスケール感たっぷりの作品だ。
世界中でかなり売れてるだろうし、
この前グラミー賞で最優秀ロックアルバムを受賞したとも思う。
多分日本でもかなり売れてる。



中でもiPODのCM曲だった「Viva La Vida」の広がりっぷりは半端ない。
音楽ファンだけでなく、一般をも巻き込んでいる、という感覚だ。
渋谷のHMVで「iPODの曲が入ってるのはこのアルバムですか?」と店員さんに聞いてるのを見たけど、そんなの結構久しぶりだったなあ。
ロックが一般を巻きこんだのはいつ以来だろう??
CD屋さんでバイトしてたときに、Radioheadの『KID A』が異様に売れたことがあった。
浜崎あゆみさんの作品と一緒に買っていくお客さんを二度見してしまうくらいに。
僕の感覚ではその時以来かな。
『KID A』もそうだったけど、ただその作品が良い、というだけでは一般を巻き込むことは不可能だ。
仮に曲が良いのみでそこをクリアでくるなら、
Oasisだって、Primal Screamだって、Weezerだって大ヒットだ。
曲が良い、にプラスでマジックが必要なんだと思う。
一般を巻き込むには良い曲では足りない。マジックがなければ。



ただ、「Viva La Vida」におけるマジックが何なのかがよくわからなかった。
何となく、何となく。
何となくの範囲で言うなら、それは‘「Viva La Vida」(=今のColdplay)と現時代との同歩調性’といった感じだっただろうか。
時代に要求された曲、というのが何となく。



ライヴは、最新作『Viva La Vida Or Death And All Friends』の曲に、代表曲「Sound of Speed」「Yellow」「In My Place」などなどが挟まっていく展開だったけど、やはり一番盛り上がったのは「Viva La Vida」。
イントロが鳴った瞬間の歓声はすごかった。
鳥肌がたった。
イントロ音で身体中が熱くなったけど、それまで暗かったステージが明るくなって曲が進むにつれ毛穴を全開にして熱を放出しなくてはならないほど体熱があがっていった。



まずはヴィジュアル。
ドラムのウィル・チャンピオンさんがギターとベースの間にいたのだ。
それまでは通常の4ピースバンドのように、後ろにでーんとドラムキットに囲まれていたのだけど。
ギター、ドラム、ベースが一直線で、その前にヴォーカル。
この隊列は壮観だった。
ただそれだけじゃあがってもせいぜい1℃だ。



ウィル・チャンピオンさんが叩きこむドラム、それが凄かった。
ドラムと言っても通常目にするドラムキットのものではなく、
太鼓、と表現する方がしっくりくるぶっといスティックで叩きつける大きなものだ。
そこから放たれるドン、ドン、ドン、という力強い音。
力強い音なんていうのじゃ圧倒的に足りない、ドクン、ドクンと体内を循環する血流の如く脈打つ生命力が露骨にむき出しになった音。
頭がかゆくなった。(僕は極度に興奮すると頭がかゆくなる)
どうしようもなくかゆくなってきて、どうしようもなく涙が溢れてきた。
焚きつけられたように躍動感を覚える自分自身を抑えられなかった。
それは感動、ではない。歓喜、だ。
「これだったのだ、これだったのだ」と何度も何度も自分で自分に歓喜の言葉を与え続けた。
「Viva La Vida」という曲の核心に触れた瞬間であり、マジック、とやり過ごしてきたその正体を感じた瞬間でもあった。



この脈打つドラム音は、鼓笛隊の太鼓のように集団を行進させるような器用なものではなく、独り個人個人を焚きつける武骨なものだった。より言うならば、集団を機能的に誘導するようなリズムを主としたものではなく、個人個人の胸に一直線に響いてくる、個人の魂を鼓舞するものだったのだ。
僕は個を躍動させようとする脈打つドラム音に宿る意志の存在にこの曲のマジックの正体を感じた。



脈打つドラム音は直接個人の内部に侵入し魂を鼓舞しながら「人間よ、進化せよ。そのために躍動しろ」と命令している。
「人類よ、進化せよ」ではなく「人間よ、進化せよ」、である。
人類の進化と人間の進化は似ているようで全く異なるものだ。



人類はこれまで絶え間ない進化を遂げてきた。農耕を発明し、文字を発明し、政治形態を発明し、宗教を発明し、兵器を発明し、機械を発明し・・・。挙げれば切がないほどに人類は発明を重ねてきた。それらは人類の進化として礼讃的に取り扱われてきた。もちろんそれに反対はしないが、礼讃的では必ずしもない事象が人類の進化によってもたらされた事実も忘れてはならない。それは例えば広島・長崎に投下された原爆であり、中東紛争であり、9.11のニューヨーク自爆テロであり、サブプライムローンに端を発する世界規模の金融危機などである。もちろんこれらを目的として発明は行われたものではなく、発明+発明+・・の結果としてこれらが起こったわけである。ただ、意識的にであれ、無意識的にであれ負の産物を創りだす側面をもった人類の進化を礼讃的にのみ無邪気に取り扱うことの危険が明るみに出てきたことは確かである。



それに対して人間の進化とはどのようなものか。それは個人の進化である。一人一人の進化だ。
勉学に励み、学ぶというそのままの意味であるが、ここでいう人間の進化は、例えばサッカーの技能を上げるとか、司法書士の資格を取るとかの個人的な目的に対する能力の向上ではなく、例えば、隣人と争わない技術の取得とか、自分とは違うものの存在を認める心の修練とか、全人類的な目的に対する能力の向上である。
この人間の進化は、人類の進化が絶えず行われてきたこれまで歴史の中で、並行して行われてきただろうか。もちろん行われてきただろうが、その歩調は徐々にずれていったのではないかと思う。人類の進化が先行され、人間の進化は後回しになっていたのではないだろうか。現在のその差は一朝一夕で追いつくものではないと僕は感じる。理由は簡単で人類の進化の方は目に見え、耳に聞こえ、お腹を満たしてくれるからだ。人間の進化は目に見えずに、耳に聞こえず、お腹も満たしてくれない。
その自明の理由=欲望にのみ忠実になり、人類の進化と人間の進化のギャップが限りなく広くなった結果が上記の原爆であり、テロであったと僕は思う。人類の進化によってできたモノを操るべき人間が進化を怠ったばかりに、そのモノ自体の暴走を許した結果とも言えるのではないだろうか。



‘その結果’がブクブクと世界の至る所で表出したのが20世紀であり、21世紀初頭であった。もちろん現在もその過程にあり、今後も‘その結果’ が様々な形で目の前に現われてくるだろう。それは覚悟しなくてはならない。ただ人類の進化は必ずしも人間を幸福にしない、という気づきは世界中で起きてきており、‘その結果’が最小限の被害で済むような次善策が思考されている。国の施策などではなく、個人個人の思考として。そしてその最も有効なものこそ人間の進化なのだ、とそれらの人々の中に生まれているのではないだろうか(もちろん人間の進化という言葉自体ではなく概念として)。



だからこそ、個人個人の魂を鼓舞しながら「人間よ、進化せよ。そのために躍動しろ」と命令する脈打つドラム音を軸とする「Viva La Vida」が2008、9年に生きる世界中の人々を惹きつけるのだ。リアルに響くのだ。切実に希求されてるのだ。音楽好きな人だけでない、世界中に生きる人間の進化が必要なんじゃないか、と漠然とでも感じている人々をだ。
これが一般をも巻き込んだ理由であり、マジックの正体でもある。
僕が「今Coldplayを観なくては」と感じたのもつまりはそういうことだったのだとライヴ後に思った。