テレビのニュース

テレビのニュースを見ていると最近よく感じることがある。
「これはどういう意味なのだろう??」と。

例えば殺人事件のニュースでは必ずと言っていいほど殺人を犯した人の知り合いだったり、近所の人のインタビューがある。質問は「どんな人でしたか?」で、答えは「そんなことをやる人には見えなかった」だ。全部が全部このやり取りじゃないけど。まあこの流れ自体別に「そうなんだ」で終わるものだが、そもそもこれを流す意味がわからない。

以前本で読んだが、ニュースの役割りの一つとして国民の一体感を醸造する、ことがあるらしい。殺人事件の犯人に対し「ひどい!」と思わせ、事故の犠牲者に対して「かわいそう」と思わせ、賄賂をもらった政治家に対して「クソ野郎」と思わせる。確かにそれらの感想を多くの人が持つことで図らずも一体感は醸されるだろう(実際感じるわけではないが)。その結果それが世間を覆い「空気」を創りだす(この時点で一体感を感じる)。この「空気」作成こそがニュースの大きな役割りだと言う。上記のインタビューを放送することはそれを効率的にやるための武器ということなのだろう。より具体的な事例を出すことでより感じさせる、という。

しかし、そのニュースの役割りは今も有効なのだろうか。ワイドショーがまだあれだけ放送されていることから考えると有効なのは間違いない。ただその役割りは一部に対してのものであって、相対的に低下していることは否定できないだろう。総中流社会と言われ、実際にそう感じられていた60〜80年代であったらそれは絶対に近かったかもしれない。しかし価値観もライフスタイルも多様化した現在において、ある一つの事柄が一体感を醸造することは不可能に近いのではないか。既存のニュース番組はその不可能に対し自覚もせずに寄り添い続けているのだ。「これが私の使命である」とでも誇るかのように。その不可能に寄り添う象徴こそインタビュー放送なのだと思う。

ニュースの役割りを現代仕様にリフォームする必要がある。ずばり現在のニュースの役割りは「事実を機能的に知らせること」なのではないだろうか。至極当たり前のことであるが、現在は何となく感じるという曖昧なフェーズは終わっていて、自発的に考えるという確かなものを獲得するフェーズに突入しているのだと思う。終身雇用が約束されていた総中流社会での「生きること」に対する思考と、現在の「生きること」に対する思考の重さは、乱暴なようだが、現在のものの方が重いだろう。その必死さからだ。守られた人と、守られていない人の差といったらいいだろうか。守られていない人が自分を守る武器を手に入れるきっかけになる場へとニュースの役割りは変わるべきなのだ。空気を作るインタビュー放送のかわりに、イラクの情勢を伝えるような。