欠けているもの

村上龍さんは、多くの日本人が暗い顔をしているのは「今日より明日の方が良くなると思っていないから」と言った。
確かにテレビや新聞などのマスメディアが報道する今後の日本は、悲観的な見解のものが多いようである。少子高齢化、都市と地方の格差、世界においての日本の地位低下などは事ある毎に報道されている。反対の、例えば数学オリンピックで金メダル獲得とか、ガラパゴス諸島で植林作業をする現地で賞賛されている日本人の存在など、誇られるべき内容の報道はそれほどされない。それらはニュース価値がないのだろうか。

ただ最も悲観されるべきことは伝えられていないように思う。個人的に思う日本に欠けている最大のものは「アイデンティティの欠如、存在の認識不足」である。

今日テレビを観ていたらアメリカの元国務長官キッシンジャーが語っていた。「プーチンがやろうとしていることを理解しなければいけない。彼がやろうとしていることはロシアの新たなアイデンティティの創出である」正直な告白をすればアイデンティティの欠如がもたらすものを僕は具体的に想像できない。キッシンジャーが映る画面を観ながら、実はそれこそが最大の問題なのではないだろうかと思った。
想像できないから、その不足を認識もできないし、そもそもその存在すら頭でわかっていても感じることができない。その大切さもわかるはずがない。
プーチンはその僕がわからないものを再創出しようとしているというのだ。

日本の政治家でそれをやろうとしている人はいるのだろうか。僕と同じと言ったら大変失礼なのだが、ずばりアイデンティティについての考えは僕と似たりよったりなのではないだろうか。つまりは、その不足も存在も、そして大切さも想像ができない、というレベルなのではないか、ということだ。

日本は明治維新を迎えて、富国強兵に富国強兵を重ねて西洋に追いつけ追い越せの精神で国を成長させた。その種ともなった岩倉具視西欧視察団の中にいた伊藤博文は西欧の現実の前で日本に足りないものを感じ取ったという。「日本人が日本人である定義」こそがそれ。これがないと例えば国民の戦争へのモチベーション向上=富国強兵ができない、と感じ取った伊藤博文は日本に帰って、そのことに尽力した。そこでひねり出されたのが、近代天皇制という画期的な制度だった。その制度のキモは「日本人とは天皇の臣民である」という定義に他ならない。「日本人が日本人である定義」=「日本人とは天皇の臣民である」としたわけだ。もちろん政府がそんなことを言っても国民がそう思わなければ全く意味がないわけだが、日清、日露戦争の連勝で明治天皇は国民からも崇められる現人神になり、伊藤博文の思惑通り日本人は「天皇の臣民」になった。つまりは日本人は「天皇の臣民」というアイデンティティを獲得したわけである。

そのアイデンティティは敗戦により失われた。戦前天皇制の廃止によってそれは為された。その後の比較的早期な復興のおかげ(せい?)で、物質的なものへの関心により比重が置かれ、新たなアイデンティティの確立という精神的なものは後回しにされ、忘れられてしまった。今もそれは変わっていない。事態は進んで、アイデンティティを確立させようという意志どころか、それがないことでのマイナス点、さらにそのものの存在すら想像できない域まで行ってしまったのではないだろうか。

プーチンが「ロシアの新たなアイデンティティの創出」のためにやっていることは報道で見る限りけっこうえげつない。ただその必要性を想像でき、その欠如によって起こることを想像でき、そしてそれを獲得するための行動を起こすということは実に素晴らしいと思う。

まずは「アイデンティティの欠如、存在の認識不足」から考える必要があると思う。