「朝日叩き」を考える

安倍首相、朝日報道に苦言 「慰安婦問題の誤報で日本の名誉が傷つけられた」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140912/plc14091210390001-n1.htm


官房長官:慰安婦96年国連報告書「朝日記事が影響」
http://mainichi.jp/select/news/20140906k0000m010140000c.html


「朝日は責任とれるわけがない」 慰安婦問題で自民・町村氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140918/stt14091814080006-n1.htm


「新聞は読売だけで十分」(政府高官) 朝日失墜で、安倍政権と読売の世論統制加速?
http://biz-journal.jp/2014/09/post_6095.html



朝日新聞従軍慰安婦報道誤報について、安倍内閣自民党の面々は上記のような発言を様々な場所でしています。
タイトルだけ見ても分かるように、もちろん「朝日叩き」です。
9/11(木)に朝日新聞・木村社長の記者会見によって、東京電力福島第一原子力発電所に関する吉田昌郎所長(事故当時)への聴取内容が書かれた「聴取結果書」(吉田調書)報道に誤りがあったことが明らかになりました。その際に、従軍慰安婦報道についての誤報も謝罪されました。その日から本日まで約2週間、「朝日叩き」は今でも至る所で行われています。
読売と産経を中心にした新聞、週間文春や週間新潮をはじめとする週刊誌などでは、連日のように「朝日叩き」関連の記事が掲載されています。
(先日、NHKのニュース(確か19時の)で、「朝日新聞の記者が主催する夏の甲子園大会でパスを他人に貸していた」といったことを伝えていました。それも早い時間で。確かによろしくないことでしょうが、これにどれ程のニュース価値があるのか僕には分かりません。昨今のNHKにまとわりつく‘物語’からすれば、「朝日叩き」と思われてもおかしくなさそうな気がします)
新聞社からすれば同じ土俵のライバル叩きという意味でしょうし(感情も多いにありそう笑)、週刊誌からすれば販売部数が伸びるネタなのでしょう。(嫌韓、嫌中と購買層は重なるという推測)
それぞれ目的があって「朝日叩き」をしているのでしょう。どれを見ても品の良い物とは僕には思えませんが、その報道すること自体に僕はどうとも思いません。
内容があまりに過剰・過激で常軌を逸していなければ、当然その報道は自由です。
(にしても、この読売新聞のやっていることはあまりに品がないですが。
誤報に悪乗り…読売新聞「朝日叩きキャンペーン」の大誤算」http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/153554


しかし、政治家、殊に内閣や与党、政権に関係する者がそれをやるとなれば話は別です。
新聞や週刊誌の「朝日叩き」と、内閣などのそれとはまったく異質なものであり、許されるべきものではありません。
その理由を、日本国憲法第21条のいわゆる「表現の自由」があるからです、と言ってしまうと、あまりに‘型に嵌り過ぎた護憲派’的な話になってしまい、ちょっと面白くないので、もっと前段から考えてみたいと思います。


それでは改めて内閣や与党、政権に関係する者による「朝日叩き」がなぜ許されるべきものではないのか。
僕が考える理由は、三つあります。


一つ目は、‘公的な睨み’が報道機関の委縮を引き起こす恐れがあり、結果「情報統制」になり得ること。
二つ目は、誤報をしたらどうなるかの見せしめになること。
三つ目は、国民、海外諸国への‘公的’なメッセージとなってしまうこと。



一つずつ見ていきます。
まずは、「‘公的な睨み’となり、報道機関の委縮を引き起こす恐れがあること」についてです。
報道機関に限らず、‘公的に睨まれる’ということは怖いものです。
一般人でも、おまわりさんに睨まれたら怖いものですし(これは本当に睨まれることですが笑)、警察にマークされているという状態が息苦しいことは容易に想像できます。
そこにある心理は、「公的権力は何をするか分からなく、強制的な力を持っている」という恐れです。
それは、数々の冤罪によって明らかになった検察権力の恐ろしさなどからも十分感じることができると思います。
報道機関も当然そんな公的権力の恐ろしさを感じることでしょう。
公的権力が何をやるのかを一番よく知っているものの一つは、報道機関です。
一般人よりも情報などに詳しい分、その恐怖心も大きくなるはずだという推測もできます。
その恐怖心が報道機関に強要する行動は、「危険なものの報道はやめよう」「睨まれそうな内容はやめよう」といった自主的な報道の抑制であり、その結果省庁や政府からの情報をそのまま報道する‘御用機関’になるという(積極的でなくとも)選択です。
その現象が、委縮と言わずして何が委縮でしょう。
これが進むことで何が起こるかと言えば、情報の画一性であり、最終的には情報の統制です。全ての報道機関が省庁や政府の情報だけを報じるようになれば、極論ではなく、情報統制という現象は論理的帰結のものとして起こります。
「情報統制がどのような社会を作り出すのか?」という疑問に対して日本人は明確な回答を持っています。明治時代から、殊に戦中の日本社会です。


【参考】
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%AB%96%E5%BC%BE%E5%9C%A7_(%E5%B9%B4%E8%A1%A8)


それは当然、戦前日本だけでなく、ソ連でも中国でも、他の国でもあることですが、情報統制がもたらす言論弾圧が社会にとって健全であるはずありません。100人いれば、100通りの考え、意見が自然のものとして存在する社会において、単一の情報のみを絶対とし、それに違反するものは罰するということがいかに異常なことか。
政府による報道機関への個別の‘攻撃’がそのような異常な社会を作る一端を担うことは疑いようもないことだと、僕は考えます。



二つ目は、誤報をしたらどうなるかの見せしめになることです。
今回の朝日新聞はまさに見せしめの様相を呈しています。「誤報をしたらこうなるんだ」という圧力です。2014年5月の『美味しんぼ』問題でも同様の流れがありました。


【参考】
美味しんぼ】福島住民に海原雄山がメッセージ「危ないところから逃げる勇気を」 "福島の真実編"が完結
http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/18/oishinbo-fukushima_n_5349422.html


官房長官が記者会見で「不快感を示し」、
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFL120L8_S4A510C1000000/
複数の閣僚が「相次いで批判」しました。
http://www.asahi.com/articles/ASG5F3DKBG5FUTFK005.html
ある表現物に対して、「誤りだ」といって政府要人が集中的に攻撃をする。
今回の朝日叩きと同じ構図ですね。
と、ここまで来ると、この段のテーマである、
誤報をしたらどうなるかの見せしめになることです。」
が不十分であることに気づきます。
政府は何も「誤報」に対して攻撃しているのではありません。
正確に言えば、
「政府の気に入らないことを報道・表現するとどうなるかの見せしめ」
ということになりはしないでしょうか。
誤報」ではなく、「政府の気に入らないこと」に対して、集中的に攻撃するわけです。
それが分かるのが、まさに今回の朝日叩きです。
9/11の朝日新聞社長の会見では、二つの「誤報」についての謝罪がありました。
一つは、政府、新聞、週刊誌が袋叩きにしている「従軍慰安婦」についてのもの。
もう一つが、「吉田調書」についてのものです。
二つの「誤報」に対する謝罪があったにも関わらず、朝日叩きの現状を見ると、圧倒的に「従軍慰安婦」についてのものです。
「吉田調書」の「誤報」に関しての政府や新聞などの言及はありましたが、朝日叩きのうちにそれがあるようには僕には思えません。
朝日叩きは「従軍慰安婦」に関するもののみなのです。
このことは、スルーされがちですが、極めて重要なことだと思います。
なぜなら、政府が「誤報」を攻撃しているのではなく、「自分たちの気に入らないこと」を攻撃している証左なのですから。
ですので、改めてですが、これを踏まえてこの段のテーマを書き換えるなら、
「政府の気に入らないことを報道・表現するとどうなるかの見せしめです。」
になります。


自分たちがやろうとしていること、やりたいことに対して、反対のこと、邪魔になることを攻撃したい、排除したという感情は、誰にしもあるものだと思います。
それは個人であろうが、組織、団体であろうが。
読売新聞や産経新聞がやっている朝日叩きは、朝日新聞よりの部数奪取とともに、この感情がその行動の源泉になっているように推測します。週刊誌もその辺変わらないでしょう。
それらの行動に対して、先述のように、僕は内容があまりに過剰でなければどうとも思いません。
しかし、政府が新聞や週刊誌と同様の欲望を発動させることはあってはなりません。
政府にもその欲望があることは認めます。彼らも自分のやりたいことを無制限にやりたいことでしょう。しかし、それを表明してはならないのです。
その理由は、前段にも通じる、報道・表現の萎縮を引き起こし、情報統制から言論弾圧に繋がる流れを社会に作ってしまうからです。


今回の政府の朝日叩きには、前政権期よりの因縁がある朝日新聞を叩くとともに、見せしめにすることで、情報の統制へ繋げる意図があると僕は考えます。
それは大きな問題であることは、先述の通りです。



三つ目は、国民、海外諸国への‘公的’なメッセージとなってしまうことです。
そもそも政府の発表は、一介の組織や団体のそれとは全く質の違うものです。
政府の発表とは、その国の公式な声明です。
首相が、「私の意見はこうですが、政府の意見は違います」というのは許されません。
発表する内容が、そのまま公的な日本政府の意思となるのです。
冒頭に引用した安倍首相の朝日新聞誤報に関するコメントです。

 個別の報道機関の報道内容の是非についてはコメントすべきではないが、例えば、慰安婦問題の誤報で多くの人が苦しみ、国際社会で日本の名誉が傷つけられたことは事実といってもいい。一般論として申し上げれば、報道は国内外に大きな影響を与え、わが国の名誉を傷つけることがある。そういうことも十分に認識しながら、責任ある態度で、正確で信用性の高い報道が求められている。それが国民の願いではないか。


「個別の報道機関の報道内容の是非についてはコメントすべきではない」や、「一般論として申し上げれば」など、安倍首相も石橋を叩いて渡るような言葉を使っていますが、そんなことは何の意味もありません。首相が発した言葉はそのままメッセージとなって、日本の公的声明として、日本のみならず、海外にも報道されるわけです。
引用部で言えば、「朝日新聞誤報は重大な問題がある」というメッセージです。
一国の首相が、自国の一新聞社を名指しで批判したわけです。
僕たちの多くが海外諸国のことを詳しく知らないのと同様、海外諸国の人の多くが日本のことを詳しくは知らないでしょう。
そういう人たちにとって、ある国の首相や大統領などの言葉は、その国がどんな国かを知る大きなツールとなります。首相などの言葉というのは、その国で起きている事件・事故よりも基本的にはニュースヴァリューが高く、報道される機会も高いものです。それはその国の公式メッセージであり、姿勢を示す性質のものだからです。他国のことを知るということは、自国を守るのに必要なことですから、首相などの言葉は興味本位以上のものとなることも多いでしょう。地理的に近ければ近いほど、興味本位以上の必要性を持つでしょう。そんな「日本とはこういう国」というメッセージに、「朝日新聞誤報は重大な問題がある」といった‘朝日叩き’をのっけたわけです。それは、従軍慰安婦問題について自分の思いを持っている人は別にしても、それ以外の人たちには、「朝日新聞は悪いものなのだ」という素朴なメッセージとして届いているのではないでしょうか。
仮に、アメリカ大統領がニューヨークタイムスを、僕が詳しくないアメリカの国内問題において「問題である」と発言すれば、何となく印象として「ニューヨークタイムスって何か良くないのかな」といった感情を持つと思います。
そして、それは何も海外諸国の人にだけ届くものではありません。日本国内の人にも当然届くわけです。国や市町村など公的なものは、何だかんだ言って、信用性のあるものだと多くの人が感じているのではないかと思います。僕自身、政府や首相、市長、官僚、役人などに対して常に警戒していますし、反感を持つことも多いですが、それでも公的なものを信用する部分があることもまた事実です。
その量が多い人にとって、首相の言葉というものは大きな力を発揮するものだと想像します。今回で言えば、「朝日新聞は問題がある」という直接的なメッセージを。


首相の言葉は、国内にも、海外にも一定の力をもって、公的なものとして伝わることは間違いないことだと僕は思います。
そんな言葉に、一新聞社についての判断をのっけていいのでしょうか?
僕には問題に思えてなりません。
現実的には首相が朝日新聞の部数を減らすことに直接影響を与えている、ということもありますが、‘公的な悪の烙印’を首相が一新聞社に押すことに賛成できません。
それは最終的には、前段、前々段と同じような結果を導くことになるでしょう。
つまり、報道機関の萎縮であり、報道統制、言論弾圧の流れです。
そこに行き着いてしまうことは避けられないものだと思います。



以上、首相や政府などの発言についての問題点を三つ見てきましたが、これらは全てが日本国憲法第21条のいわゆる「表現の自由」に行き着きます。
表現の自由」の侵害です。
ここで日本国憲法第21条を確認します。

1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


首相や政府などによる朝日叩きを問題視する理由としてあげた三つの内容は、全て「報道機関の萎縮 ⇒ 情報統制 ⇒ 言論弾圧」に繋がります。
それは当然、「表現の自由」の侵害になります。首相や政府、自民党議員は、「表現の自由」を侵害したことになります。これが問題でないはずはありません。日本国憲法に反する行動をとっているわけです。
彼らが日本国憲法に反対であっても、反して良いわけありません。

第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


を見れば明らかです。
長々と書く必要もなくこれだけ書けば良いのですが(笑)、一つだけ理由があってここまで続けてきました。
すなわち、第21条「表現の自由」についてこの機会に改めて考えてみたいと思ったのです。


第21条「表現の自由」とはどのようなものなのでしょうか?
考えるまでもない質問のように思えます。そしてそれは確かに考えるまでもない意味を持っています。つまり、「様々な表現をすることは自由であり、検閲などで邪魔されるものではありませんよ」ということです。これは正解ではあります。
ただ、この条文が日本国憲法にしっかり明記されている意味を考えると、その範囲だけでは不十分なのではないかと僕は思うのです。
日本国憲法とはその性質として、ある特定の人に向けたものではなく、全日本国民に向けたものであることは疑いようがありません。第21条「表現の自由」も当然全日本国民に向けたものであるはずです。
それを踏まえると、先程あげた「様々な表現をすることは自由であり、検閲などで邪魔されるものではありませんよ」というのは、芸術や報道などの「表現者」という特定の人に向けた内容であり、全日本国民に向けることを前提とする日本国憲法の精神を充分満たす解釈ではないのではないかと僕は考えます。
第21条「表現の自由」も、「表現者」だけのためのものではありません。全日本国民のためのものであるべきです。
それでは、それが全日本国民のためのものと自らが感じるにはどのような解釈をすればよいのでしょうか。日本国民全てが、「第21条「表現の自由」は私のためのものである」と感じるには。


それには、第21条「表現の自由」に対する態度として、能動性よりも受動性を重視することが肝になるのではないかと僕は考えます。
ある特定の能動的に行動する人だけのためのものではなく、誰もがまんべんなく受動的に享受するものである、という態度です。
ではその態度はどのような認識で実現できるかと言えば、第21条「表現の自由」は誰もが関係しているものを対象にしている、という認識によってではないでしょうか。
その‘もの’とは、「社会」です。「社会」は、好きであろうが嫌いであろうが、誰もが参加・所属せざるを得ないものです。特定の人のためのものではありません。
つまり、第21条「表現の自由」は特定の「表現者」のみに向かったものではなく、「社会」という誰もが関係するものに向かったものであるという認識です。
それを下敷きにした時の第21条「表現の自由」はどのような解釈をするのが適切でしょうか。様々な言い方はあるでしょうが、例えばこんなのはどうでしょうか。
すなわち、
「社会には多様な意見があるべきで、単一のものに統制されてはならない。その状況を担保するものが第21条「表現の自由」である」
といった感じ。
誰もが関係する「社会」を単色に染まることなく、豊かな色彩を持ち合わせる鮮やかなものにする一翼を、第21条「表現の自由」が担っている。
特別に自分が表現や報道などに関わることがなくとも、「社会」で生きている日常の中で恩恵を受けているという受動的な関わりにおいて認識される第21条「表現の自由」。
このような解釈によって、第21条「表現の自由」は、日本国憲法が持つ‘全日本国民へ向けたメッセージ’という性質をより鮮明に打ち出すことができるのではないでしょうか。
さらにそれは、「単一の考えによって統制された社会ではなく、様々な考えが認められる多様性のある社会を守ります」という全日本国民に向けた揺るがない日本国憲法の意思の存在を感じることに繋がるのではないかと思います。
日本国憲法は、多様性を求め、統制を拒否しているのです。



安倍首相、閣僚、自民党は、朝日叩きによってその日本国憲法の意思に挑戦したと言ってもよいでしょう。彼らは、報道機関を萎縮させ、情報統制を図り、言論弾圧を狙っているわけです。自分たちの考えに沿った統制への欲望です。
この欲望は何も僕が勝手に想像して言っているわけではありません。彼らは自分自身でそのことを表明しています。すなわち、自民党が2012年4月にまとめた「自民党憲法草案」です。
自民党憲法草案」の第21条「表現の自由」を見てみます。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他
1 一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。


自民党憲法草案」
http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf


一見すると現在の日本国憲法同様、表現の自由を認めているようです。
しかし、実際はその反対となる大きな制限の可能性を孕んだ条文になっています。
その肝は「公益及び公の秩序」です。これを害さない限りにおいて自由である、と言っています。
ここで重要になるのが、誰が「公益及び公の秩序」を判断するか、ということです。
まず「秩序」の意味を確認してみます。

「秩序」
1 物事を行う場合の正しい順序・筋道。「―を立てて考える」
2 その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり。「学校の―を乱す」


http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/142001/m0u/


「公益及び公の秩序」における「秩序」は、2の方ですね。
言葉を当てはめてみると、
「日本の社会が、望ましい状態を保つための順序やきまり」
といった感じでしょうか。
日本の社会の順序やきまりを規定するのは、一般的には政府をはじめとする公権力と言えるでしょう。それは当然、判断の領域においても同様でしょう。その中で政府の意思がもっとも力を持つという想像は、そう的外れなものではないと思います。
つまり、「自民党憲法草案」の第21条「表現の自由」は、政府の意思によって制限される可能性を孕んでいる、と言えます。政府が「この報道、表現は、日本の社会の順序やきまりを害すものである」という判断をすれば制限できるのですから。
自民党憲法草案」の中でこの「公益及び公の秩序」が登場するのは、第21条「表現の自由」だけではありません。
第12条、第13条、第29条の3箇所と第21条で、計4箇所に使われています。
複数回にわたって、「公益及び公の秩序」を使い、政府が絶対的な権限を持つことをアピールしているのです。
これはそのまま統制の欲望と言えるものだと思います。自民党はしっかり自らが作った「自民党憲法草案」でそれを表明しています。


今回の首相などの朝日叩きは、第一義的には「朝日新聞憎し」の感情の噴出でしょうが、「表現の自由」を侵すことで統制の欲望を露骨に表しもしました。それは再三言いますが、日本国憲法の意思に反するものです。断じて許すわけにはいきません。
日本国憲法にはこのような条文もあります。

第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
首相らが第21条「表現の自由」を侵す意思を示すなら、‘不断の努力によって’国民は彼らに対峙し、それを守らなければなりません。これも日本国憲法の意思です。
この稿はその意思に沿った、未熟ではありますが僕の‘不断の努力’の一端です。



最後に自民党にもこんな人がいることも付け加えて締めたいと思います。

自民党二階俊博総務会長は記者会見で「新聞記事を論評することは、(政治家の)われわれの立場からは抑制的に、もっと言えば控えておくべきだ」と語った。


http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014091302000118.html