「国」は「企業」ではない

医療費負担で麻生副総理「暴飲暴食で糖尿病のツケ払うのは不公平だ」
2013.4.25 08:42  産經新聞


 麻生太郎副総理兼財務相は24日夜、都内で開かれた会合で、医療費負担について「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつの医療費はおれたちが払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」と述べた。「生まれつき体が弱いとか、けがをしたとかは別の話だ」とした。


 医療費の抑制策としては、病院に通わずに医療費がかからなかった高齢者に対して「『10万円をあげる』と言ったら、(全体の)医療費は下がる。それが最もカネがかからない方法だ」とのアイデアも示した。


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130425/stt13042508440001-n1.htm


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麻生さんのお話だそうです。
無性に腹が立つ、という個人的な感情の前に、
「国」というものは、ピンからキリまで雑多に存在する個人をまとめて面倒見ましょう、
ということが前提にあるのではないでしょうか。
麻生さんのお話を、
「自分の不摂生でキリになった人間の面倒なんか見たくない。自己責任だ」
という意味で僕は解釈しましたが、
これは「国」を運営、設計する人間の言葉としてはいささか方向違いのような
気がしてなりません。
麻生さんが言う
「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつ」
の面倒を見るのが「国」です。
国家経済に影響を与えるほどそういう人たちがたくさんいる、ということは
‘問題’ではなく、‘結果’です。
これまでの「国」が採ってきた医療政策、教育政策、産業政策、外交政策、経済政策なども一因となって生じる、国民の食生活、文化、意識、嗜好、お金の持ち具合などによって発生した糖尿病の増加、
という‘結果’です。
その‘結果’を見て
「そんなやつらの面倒を見るのなんか嫌だ」
と言うのは「国」としてその‘結果’を引き起こした一因から逃れることの意味、
さらに「国」の在り様からの逃れることの意味で、二重の責任逃れでもあると
僕は考えます。
「なってしまったものはしょうがない」と面倒を見るのが「国」であり、
「そうならないように対策をたてよう」と制度設計をするのが「国」ではないでしょうか。


麻生さんの言葉を
「自己管理もできないキリのやつらの面倒を、ピンであるオレたちが見たくない。
 キリのやつらなんかいなくなってしまえばいい」
と換言して取りました。
ピンの人間だけでいれば彼は無性に腹が立つことがなくなって幸福なのでしょう。
それは確かにそうです。腹が立つ要因がなくなれば嬉しいものです。
嫌いな人、嫌いなもの、嫌いな雰囲気、そんな「嫌い」が自分の範囲から
なくなれば気分がスッキリします。
ただ、返す返すですが、
「国」はピンからキリまで雑多に存在し、それらの人を公平に面倒を見る機関です。
ピンだから優遇する、キリだから放っておく、
ということが許されない機関です。
「国」は、ピンだけを選択的に集めることが許される「企業」ではありません。
麻生さんの言う「無性に腹が立つ」人の面倒見るという義務を持ち、
また、そういう人の数を減らして行くという義務も持つのが「国」です。


麻生さんは根が「企業人」なのかもしれませんが、
現在の国家運営責任者の一人である人の言葉としては残念に思います。
もろもろの自民党の政策も「企業化」しているように感じますので、
麻生さん一人のことではなく、政府全体の認識なのかもしれません。
そのことは注視していきたいと思っています。



最後に麻生太郎という個人のことを思うと、
「自分がそうなる可能性」を一切考慮にいれない知性の低さは如何ともし難い、
と何だか可哀想になる、ということを付け加えておきたいと思います(笑)。