相模原市いじめについて〜友人との往復書簡

相模原いじめ:「同じ目に遭わないように」被害生徒証言
毎日新聞 2013年03月26日 02時30分(最終更新 03月26日 07時56分)


 相模原市中央区の市立中で3年の男子生徒(15)がいじめを受け、同級生3人が傷害容疑などで逮捕された事件で、被害生徒が毎日新聞の取材に応じ、3年間にわたる過酷ないじめについて語った。本人と母(43)は何度も学校に被害を訴えたが、抜本的な対策は取られなかった。生徒は「いじめられている子が自分と同じ目に遭わないようにしてほしい」と訴えた。【宗岡敬介】

 「お前の死刑は確定した」。昨年10月17日の昼休み、生徒は学校の図書室前の廊下で男子同級生に言われ、顔を膝蹴りされた。さらに頭を抱えられ、廊下の壁に数回打ち付けられた。鼻の骨が折れ廊下に血が滴った。

 いじめは1年生の時に始まった。最初は同じクラスの男子にささいなことで言いがかりを付けられた。10年10月ごろ、サッカーの部活動中に同級生部員とトラブルになり、倒れたところを複数に囲まれ顔などを蹴られた。前歯が欠け、頭を強く打ち病院に運ばれた。


 2年でさらにエスカレートし、理由もなく殴られ蹴られた。バッグを踏まれたり教材をばらまかれたりし、靴や上履きは少なくとも5、6足無くなった。


 いじめに関わったのは同級生数人。生徒と母は1年の時から、担任教諭らに何度も被害を訴えたが、学校側は学年会で話し合うことはあっても「けんか」「トラブル」と判断して抜本的な対策は取らなかった。市教委にも報告しなかった。


 生徒は「何かが変わると期待して訴えているのに何も変わらなかった。がっかりするくらいなら、何も言わない方がましだ」と思った。諦めから11年9月ごろ以降、担任に被害を訴えるのはやめた。担任は被害が無くなったと思い込み「感情のコントロールができるようになった。成長した」と生徒を褒めた。


 事態は悪化し、3年生の昨年9月7日、同級生に腹を回し蹴りされた。10月11日、トイレで別の同級生2人に殴ったり蹴られたりした。母子が神奈川県警相模原署に被害を相談したのは同17日の暴行の3日後だった。


 学校側は9月の暴行で警察に被害届を出すよう母に勧めながら、「警察が学校に来て初めて事態の深刻さに気づいた」と主張。さらに市教委が継続的ないじめを把握したのは同級生が逮捕された12月になってからだった。


http://mainichi.jp/select/news/20130326k0000m040093000c.html

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ーー【友人A ⇒】ーー


こういうの見るたびに、加害者について「育ちが悪い」と思ってしまうのです。


理由もなく殴る蹴る、という殺人手前の行為をして家に帰って、両親や祖父母の顔を見ても
良心の呵責が全くないような、そんな育ち方をしてきたのではないかと思ってしまいます。
または、殺人手前をばあちゃんが知ったら悲しむだろう、という想像力が欠如しているとか。


逆に、家庭や環境が(育ち方が)平和でこういう凶暴な子供に育つとしたら
どういう経緯でそうなるのか興味があります。
生まれつき「殴る蹴る人」として生まれてくるなんてありえないし(ありえるんでしょうか)
ある日突然スイッチが入って暴力を振るうようになるとは思えません。
徐々にそうなるように(無意識に)周りがしてしまっているはずだと思います。ほんのちょっとしたことかもしれませんが。


死ぬかもしれない暴行を「これは越えてはいけない一線だ」と判断できない程度の教えしかされてこなかったか、
またはそういうことをしても怒られない環境であるとか。


加害者もそんな育てられ方しかしてこなかった、という意味では同情の余地はないとも言えませんが、許されることではありません。


こういうのは9割、親と家庭(と地域)に原因があると思います。
相模原って治安もあまりよくない場所な気がするのでそういうのも関係していると思います。


ちょっと短絡的ではありますが、根本はそこな気がします。



ーー【僕 ⇒】ーー


同意!!


>こういうのは9割、親と家庭(と地域)に原因があると思います。


僕もそう思います。
日々の生活の中で親や兄弟や親族など近しい人が、暴力という目に見えるものでなくとも、
例えば、乱暴な言葉遣いとか、ドアを音をたてて閉めるとか、物を投げるとか、
スーパーで自分が買わない商品に対して扱いが粗いとか、車の運転で急な横は入りするとか、
そんな小さな「乱暴」が蓄積されている家庭において、「暴力」は刷り込まれてるような気がしています。
まさに、Aさんが言うところの
>徐々にそうなるように(無意識に)周りがしてしまっているはずだと思います。ほんのちょっとしたことかもしれませんが。
なんだと思います。


>殺人手前をばあちゃんが知ったら悲しむだろう、という想像力が欠如しているとか。


僕も最近思うんです、上記のような小さな乱暴をしている人を見ると、
「その姿を、あなたの奥さん、恋人、子供、両親、兄弟、祖父母、友達にみせて恥ずかしくない??」
って。
他人が自分のことをどう思うか??っていう想像力を組織的に破壊したのが、
「自分らしさ」とか「個性」とかだと僕は思っています。
それらの言葉には「他人の目を気にしたら負け」と意味がセットになって含まれていると思います。
「自分らしさ」を追求することが、=で「他人の目を気にしない、してはいけない」になっていっているのではないか、僕はそんな風に考えています。
他人の目を気にしなくなったら、僕はその人を「動物」と呼びたいです。
動物に失礼だけどw
人間は「他人」の中に生きるものだと僕は思っています。
他人を気にし、意識し、優しくし、痛みを知り、心配する。
それが人間であってほしい。
書きながら思いましたが、「自分らしさ」の絶対的肯定の世の中の風潮が、
いじめをえげつないものにしているのかもしれません。仮説。


>加害者もそんな育てられ方しかしてこなかった、という意味では同情の余地はないとも言えませんが、許されることではありません。


まったくですね。
よく「いじめられる方も悪い」とか言いますけど、
そんなわけない!
よしんばいけ好かなくて、嫌いな人がいても、ほっとけばいいじゃんと。
どんなに嫌な人でも「いじめ」の状態になったら、
それはいじめる方が絶対的に悪だと僕は信じます。
世の中として、それは絶対的に悪だと、常識として登録しなくてはいけない、
くらいに僕は思っています。
「人それぞれ」という言葉とともに、昨今は常識が軽んじられているような気がしますが、
しっかり常識が常識として力をもつ世の中であってほしいです。


こういうニュースを見聞きすると、本当に不思議ですよね。
なんでそこまでできるんだ、って。



ーー【友人A ⇒】ーー


>例えば、乱暴な言葉遣いとか、ドアを音をたてて閉めるとか、物を投げるとか、
スーパーで自分が買わない商品に対して扱いが粗いとか、車の運転で急な横は入りするとか、
そんな小さな「乱暴」が蓄積されている家庭において、「暴力」は刷り込まれてるような気がしています。


まさにこれなんですよね。ガム捨てるのとかもそう。「行儀が悪いこと」全般ですね。


>他人が自分のことをどう思うか??っていう想像力を組織的に破壊したのが、
「自分らしさ」とか「個性」とかだと僕は思っています。


なるほど。。目からうろこですね。ここはアメリカとは違うんだよ、っていう。


>他人の目を気にしなくなったら、僕はその人を「動物」と呼びたいです。


ほんとに動物様未満ですよ!動物は理由があって暴行(捕食)してますもんね。


>よしんばいけ好かなくて、嫌いな人がいても、ほっとけばいいじゃんと。


そうなんですよね。子供のころからそういう風に教えられたらそういうもんだと思うはずなんでやっぱり教育ですよ。
とかいうと「他人への無関心を助長する」とか的外れなこと言いだす人がいるんだよなあ。そういう奴ごとほっときましょう!



ーー【僕 ⇒】ーー


ちなみに、僕が100円ショップが好きではない理由の一つが、
小さな「乱暴」の機会を増やすから
です。


100円ショップにまつわる基本的な考え方は、
「壊れたら買えばいい。100円なんだから」
だと僕は思っています。
さらに言えば、
「壊してもいい」
です。
100円のものと、1万円のものの扱いは、
やはり1万円のものの方が丁寧になると思います。
100円ショップで買ったものが多い家庭と、
100円ショップのものがあまりない家庭=よりお金をだして物を揃えている家庭
では、小さな「乱暴」の回数が違うのではないかと推測します。
もちろん、100円ショップで買ったものが多い家庭の方が、
その回数は多いという推論です。


小さな「乱暴」の機会を減らすためにも、100円ショップのものは
あまり家には置かない方がいい、というのが僕の持論です。
まあ、想像だけの机上の空論なんですがw



ーー【友人A ⇒】ーー


100円のもの家じゅうにある⇒子供がなんの悪気もなく壊す⇒親は「また買えばいい」から怒らない⇒子供は「壊しても怒られないんだ」から堂々と壊すようになる(=悪いと思ってない)⇒回数が増える⇒他のことについても善悪が曖昧になる⇒動物や人をたたくのが悪いことだと思わない

ていうのは容易に想像できますね。


あと、壊していくうちにだんだん快感に変わっていくとかはありそうですね。
で壊せなくなったときに逆上するという理不尽。


やっぱり親(家庭)が悪いですね。



ーー【僕 ⇒】ーー


>あと、壊していくうちにだんだん快感に変わっていくとかはありそうですね。
これはありそうですねえ。


相模原の件も、顔面に膝蹴りした、とか通常考えたら信じられないことをやってますよね。
そんな常軌を逸したことをやる背景には、「快感」があっても不思議ではないし、
むしろ、あるべき、と思う方が自然かもしれませんよね。


学校が!教師が!
なんて言ってる親に限って、自分の失敗を自覚しているのかもしれませんね。
その責任を意識的にも、無意識的にもなすりつけているのかも。