今日の一冊〜「故郷忘じがたく候」

26日の土曜日に行った古本屋さんで買いました。
50円! 表紙もなく、紙の色も変色していましたが、読めればいいや、と思い購入。
多分、以前にもこの本買った覚えがあるので、もしかしたら読んだかも、とも思いましたが、読み進めても一向に知らない話なので、読んでいないことは確かです。どこかに眠っているのでしょう(笑)。


表題の「故郷忘じがたく候」と、「斬殺」「胡桃に酒」の3編が収録されています。
「故郷忘じがたく候」は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に日本に連れて来られた高麗人の鹿児島にある集落の話、「斬殺」は戊辰戦争における東北地方を舞台にした話、そして「胡桃に酒」細川ガラシャの生涯の話です。
戦国時代と幕末の話で、特に関連があるわけでもありません。
オムニバスといった感じでしょうか。
本自体文庫で200ページほどなので、片手で負担に感じることなく持てて、さらさらと読み進めることができて良い感じです。まだ途中ですけど(笑)。



2つ目の話、「斬殺」において。


「謙信公の武名を恥ずかしむるべからず」
というのが、藩士に対する平素の訓戒であり ------


という記述があります。


時は幕末、鳥羽伏見の戦いで勝利した官軍が東へ、東へ押し寄せてくる時節。
薩長を中心とする官軍に対し、東北諸藩の連携による奥羽越列藩同盟ができました。仙台藩米沢藩山形藩、長岡藩など32藩が参加した同盟です。
その後の成り行きを知る現在からこの時代を「歴史」として見ると、新政府に対してちょっとした抵抗をした東北の同盟、ととらえられがちですが、この時代に自分の目線をあわせてみると、明日の道さえはっきりしない官軍と東北諸藩の命がけのせめぎ合いがあったことは明白です。東北諸藩が官軍を打ち破り新たな新政府を作る、ということも、無限の可能性として夢想した人々がその時代には確かにいたはずです。
今の僕たちからすると、その後新政府軍が勝ち、明治政府を作って行くことを知っています。その明治政府の視点からみると(現代人が一般的に知る「歴史」として見ると)、東北諸藩の「反乱」または「抵抗」という位置づけとして見られることが多いですが、その時代においては「反乱」「抵抗」というのがどちら側にあったのかすら確かなものではありません。なにせ当事者としては、自分たちが正統であり、相手を「反乱」「抵抗」とお互いが見ているわけですから。その抜きつ抜かれつのヒリヒリした状況を想像し、可能な限り近づくことを「その時代に自分の目線をあわせる」と僕は呼んでいますが、そのためには、知識はもちろん、多角的な視点と、自分の存在をその時代内に置き換え、現在の知識で見ない謙虚さと、「みんなご事情がありますよね」というそれぞれの人々の立場、考え、事情を思いやる優しさが必要だと思っています。そういう意味で「歴史を学ぶ」とは、立場や価値観が違う人に対しても「お互い大変ですねえ。あなたのご事情もよくわかります」という相手を思いやる力を修養することになるのではないかと密かに思っています。トンでも話のようですが、けっこう本気で思っています(笑)。


と、驚いたことにまだ本題にはいっていませんでした(笑)
改めて。


「謙信公の武名を恥ずかしむるべからず」
というのが、藩士に対する平素の訓戒であり ------


この記述は、上記の奥羽越列藩同盟に参加した米沢藩におけるものです。
「謙信公」とは、上杉謙信ですね。米沢藩は上杉家の領地です。
上杉謙信は、越後でどでーんと構えてましたが、その後時代の変容で上杉家は越後時代よりも領地がかなり減った状態で米沢の地に移りました。
その米沢藩での訓戒が上記の
「謙信公の武名を恥ずかしむるべからず」
というわけです。
上杉謙信の時代から幕末期まで約300年あります。しかも、領地も変わっていて上杉謙信が構えた越後ではなく米沢です。時代も場所も変わっていますが、やはり上杉家の柱とすべきは、上杉謙信なのですね。
司馬さんの記述のように、訓戒として藩士全般に行き渡っていた、みるとそれは一つの教育の柱ともなっていたのでしょうね。
「この時代、しっかりと機能した教育があったんだなあ」
と想像してしまいます。
なんて書いていますが、僕に「しっかりと機能した教育」が何なのか分かるはずもありません(笑)。
あくまで想像なのですが、そのように想像してしまった理由は、
「その教育に他者はいるのか」
という点において、
「謙信公の武名を恥ずかしむるべからず」
の訓戒を基軸にする教育には、他者がしっかり存在している、と思ったからです。


教育に他者に存在する、なんてもったいぶった言い方をしていますが、
まあ、大したことではありません(笑)。
「その教育を受ける人は、誰のためにそれをやっているか」
ということです。
教育を受ける=学ぶということは、もちろん自分のためにです。
自分を修養するために学びます。
それはどんな人も同様だと思いますが、その先に「他者」がいるか、いないかの分岐点は人それぞれでありそうです。
つまりは、自分のみのために学ぶ人と、自分のためでもあるが他者のためにも学ぶ人、の違いです。
どちらが良いか悪いかという観点ではなく、どちらの方が学ぶ力をより促進することができるかという観点で見た時、それは「自分のためでもあるが他者のためにも学ぶ人」の方が明らかにその力が強いと僕は思います。
自分のみのための場合、それをしないことで不利益を受けるのは自分だけです。だから、いくらでも手を抜くことができます。自分さえ納得すれば。
一方、自分のみならず他者のためにもの場合、そうはいきません。自分が手を抜くことで不利益を受けるのは自分だけでなく、他の人にもその影響がいってしまいます。またその逆ももちろんあります。自分が頑張れば、自分だけでなく他者も利益を受けることができます。


「他者に不利益を与えてはいけない」
「他者に利益を与えたい」


その気持ちが人の学ぶ意欲を激しく刺激するのではないかと思うわけです。
人は、自分のやったことで他者に喜んでもらいたい、傷ついてほしくない、と自然と思う存在なのではないでしょうか。恐らく。
その本能的な部分を刺激する装置として「他者」を入れ込むということはとても有効なことのように思えます。



「謙信公の武名を恥ずかしむるべからず」
というのが、藩士に対する平素の訓戒であり ------


に戻るならば、当時の米沢藩は、上杉謙信という絶対的な存在である他者をその教育の基軸におくことで、藩士の修養能力を著しく向上させたのではないかと想像します。
もちろん、心からの上杉謙信に対する尊敬の念を前提にしつつ、「装置」として
上杉謙信を使ったという側面もあったのではないでしょうか。


当時の人々は、どういう状態が学ぶ力を促進させるのか、ということをしっかり分かっていたのだろう、と想像します。理論的にか、身体感覚でなのかはわかりませんが、上記の米沢藩のみならず、お隣の仙台藩なら伊達政宗薩摩藩なら島津義弘など、日本全国で土地土地の‘上杉謙信的存在’がいたことがそこに深く関係しているように思えます。
さらには、明治期になっても、例えば義和団事変の際の日本軍指揮官であり世界から賞賛された、幕末期に教育を受けた柴五郎が、自分の行動を常に出身地の会津に対して恥ずかしくないかということを基準にしていた、ということも、江戸期の教育に「他者」がしっかり存在していた、ということを物語っていると思います。
それらのことをもって
「この時代、しっかりと機能した教育があったんだなあ」
と感動をもって、確かに感じるのです。



明治期、政治家も軍人も文人も実業家も、欧米列強に追いつき、追い越せ、より身体的な言葉で言えば、植民地にされてなるものか、という恐れを抱えた状態で、それぞれの人の活動の中心に「日本」もしくは「日本人」があったのだと想像します。
言葉で言えば「御国のため」です。しかし、その言葉も先の大戦を表現する代名詞のようになってしまい、今では冷笑される可能性が極めて高い言葉になってしまいました。
その現実の中で「御国のために」という言葉が人々の心に響く可能性は少ないと思いますが、「自分が所属する地域、そこに住む人々のために」「両親のために」「奥さんのために、子供のために」などと、他者の存在を自分の行動の中に組み込んでみるのはいかがでしょうか。学ぶことのみならず、様々な行動を促進させる有効な装置になるはずです。



「自分の収穫物は全て自分のもの」という考えよりも、
「自分の収穫物で他者にも喜んでもらおう」という考えの方が、
その収穫物を増やすことができるのです。
人とはそういう存在です。
恐らく。